【第596回】  かたと単独動作

物事を学ぶには、まず形から入れといわれる。合気道を学ぶにも、形から入っていくことになるし、誰もがそうしているはずである。
最初は受け身の形を身につけ、そして一教や四方投げなどの基本の形を覚えていくことから始まる。

しかし、ここで形から入れと言ってはいるが、形で終わりとはいっていない。形から入るという物事を学ぶための入り口を教えているだけなのである。
従って、この入り口に入った後、この形をどうするのか、どうすればいいのかを考えなければならない事になる。例えば、画家は絵を学ぶためにデッサンなどで正確な描写から始めるがこれで終わりではない。形から入っていくわけだが、写真のような正確な描写の絵は評価されない。この写実を超えるものの存在を感じさせなければならないのである。

合気道も形から入って形を身につけるが、この形を超越しなければならない。結論から云えば、この虚ろな形に技を満たしていくことであると考える。宇宙の営みである技を形に入れていき、形を満たしていくのである。そうすることによって、この形が超越した形になっていくはずである。例えば、その形に陰陽、十字、天地の気、天地の呼吸等々が入っていくわけである。
そして合気道の形に技を少しでも多く満たしていくのが、合気道の稽古、修業ということになると考える。

自分のやっている形に、技がどれだけ入ったのかを知るのは相対稽古であろう。技を掛ける自分でもある程度わかるし、相手も相応の反応を示してくれるからである。自分の未熟さや進歩上達が、相手でわかるのである。
しかし、相対稽古は相手との相対的な関係にあるから、相手によって上手くいったりいかなかったりしてしまうので正しい評価は難しい。相手や他人に関係ない評価が必要になる。

それは一人での形、単独動作だろう。通常、二人でやっている形を一人でやるのである。形がしっかり身に着いていれば一人でもその形で動けるはずだし、そうでなければ動けない。だから、一人の単独動作でも、一教、入身投げ、四方投げ等‥その形ができるようにすればいい。
かっての本部の先生で、稽古時間によく単独動作で形を、ちょっとずつだが示して下さった先生で印象に残っているのが、藤平先生、斉藤先生、多田先生、有川先生である。当時は、一人でよく出来るものだなと感心していたことを思い出すし、今でも、その形の単独動作が目に焼き付いている。
形がしっかり身に着いていれば、一人での単独動作でも出来るということであり、単独動作でもできるようにしなければならないということになろう。
単独で形の動作ができれば、相対稽古ではその形に相手を取り込んでしまうことになり、所謂、相手があって相手がない相対稽古となるわけである。