ビジネスのための武道の知恵

現代文明の限界を乗り越える、武道の豊かな知恵とロマン。世界最大の見本市会社でグローバルビジネスに長年携わってきた体験から、ボーダレス時代のビジネスと生き方のヒントや、合気道の思想に基づいた技の探求を語る66編のショート・エッセイ。

A5判:280頁 定価:2,000円+税 発行:1999年10月
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【各章粗筋】
第一章 ロマンを求めて
人間は決して完全になることはできないのに、なぜか完全を目指すよう宿命づけられているようです。植芝翁も、あの境地に立ちながら、完全を目指して最後の最後まで修行されていました。
人間にとって、しょせん叶わぬ完全性を追い求めることは、中世の西欧の騎士が、実際には得られない領主の奥方に賞賛の目で見られたいためにひたすら闘い、騎士道を完成させていったのと同じようなロマンといえましょう。
武道家にとって、真の敵とは、自己の"不完全性"なのです。・・・・・・
合気道の技の稽古でも完全性を目指してやっているわけだが、決してそこに到達できないないことも分かっている。完全性に決して到達できないことを知りながらも修行を続けることは、まさにロマンではないか。(抜粋)

第二章 意識化する
人は普段、ほとんどの動作を無意識でやっています。しかし、武道では稽古を通じて、身体を意識的に動かす訓練をします。効果的な動きとは、強くて早く、無駄のない美しい動きのことです。そのためには身体各部が十分に、正しく働き、正しい軌跡を描き、天地と相手、さらに自分自身の呼吸とも調和することが必要で、陰陽の転換も十分機能しなければならず、非常に難しいものです。
何千回、何万回とくりかえすことによって、ある程度その型が正しくできるようになったら、今度はそれにとらわれず無意識的に動けるよう練習をするべきです。ここまでくると普段できないような真の力が出てくるものです。
ビジネスの面においても、普段多くのことを習慣的に無意識的にやっています。
何気なくやっていることを一度意識化し、事務処理や対人関係をも改めて見直してみれば、何が大切で、どこにどのように力を注げばよいか、もっとよくわかるようになると思われます。そうすれば、前よりももっと効率的で効果的な結果が得られるはずです。(抜粋)

第三章 50,60代は鼻たれ小僧
武道を修行するということは、日々刻々精進するということです。それは、自分の弱いところ、苦手のものを無くし、自分の得意技、特長を伸ばすことです。 それと同時に、10年後を睨んだ稽古、つまり10年先に繋がる稽古をしなければなりません。10年後には自分がどうなりたいのか、というイメージを強く持てば持つほど、進歩は早くなります。
イメージは予想をはるかに越える強い力を持っているのです。

合気道の創始者であり、達人であった植芝盛平翁は、89才で亡くなる直前まで、「まだまだ修行じゃ」と、合気道の練磨をされていました。よく師範や我々門人に、「60才前は世の中、物事がまだ真に分からない鼻垂れ小僧じゃよ」と面と向かっていわれていました。・・・・・
果たして60才でそうなれるかどうか大変不安ではありますが、反面、70才、80才・・・の自分自身がどうなっているのか、楽しみともいえるでしょう。(抜粋)

第四章 危険を感じられますか
「武道の稽古で、第一に学ばなければならないことは、危険を感じ、危険を避ける訓練をすることです。稽古相手に対するときには、相手の正面では技をかけないようにし、相手には自分の背中を見せないようにします。はじめは先輩に注意してもらったり、自分で意識してやるのですが、やがては無意識の内に、相手の前に立つと危険を感じるようになり、さらに相手の最も弱い所、つまり"死角"に入って、相手の中心を押さえるようになってくるものです。ここではじめて、相手に技をかけることができるようになります。」(抜粋)

第五章 危険を避ける術
「武術とはでき得る限り自分の身体を安全な所に置き、敵の弱い所を攻めるもので、危険を避けるための多くの知恵があります。今よりももっと危険に満ちた時代を生き抜いてきた先人の体験から、現代でも応用できそうなものを拾ってみましょう。・・・・
怪我や脳しんとうなどの事故が起こる際には、一瞬いままでの流れが停止するような、ふしぎな時間があります。ボクシングでノックアウトが決まるほんの一瞬前や、柔道で一本が決まる直前などでも、両者の動きが止まったような空白の瞬間ができます。いわゆる、嵐の前の静けさのようなこの一瞬を感じ取り、おかしいと思ったら、すかさず新たな態勢をとるか、逃げることが大切です。」(抜粋)

第六章 無駄をなくす
「同じことは、稽古での動きにも言えます。初心者の動きには、たいへん無駄が多いのです。というのも、動くべき所が動かず、動く必要がない所を動かすからです。右左、または左右と、二歩でおさめればよいところを三歩以上になったり、テレビの時代劇の殺陣よろしく手先ばかり動かして、足がちっとも動かなかったりしているからです。
稽古で求められる動きとは、多過ぎることも少な過ぎることもない、無駄のない動きで、それが"自然な動き"といえるでしょう。"自然な動き"は最も美しく、安定した強さをもち、相手を納得させる説得力にみちています。稽古中にも、先輩や師範の流れるような動きを見るとほれぼれします。」(抜粋)

第七章 錯覚
「ふだんから、われわれはいかに思い込みや錯覚に陥っているか、合気道の稽古をやっていると痛感させられます。・・・
なかでも、稽古を重ねれば、それだけ上手になれるという錯覚を抱いている人は特に多いようです。もちろん、稽古をしなければ上手にはなりません。しかし、それは必要条件であっても、十分条件とはいえません。やればいいというのではなく、いかにやるかが重要であり、目的を明確に持ち、それに沿ってやっていかなければ何にもなりません。
また、人間は自分の目を過信し勝ちで、自分で見たことを正しいと思い込むようです」(抜粋)

第八章 基本が大切
「同じように武道や武術の世界でも、やらなければならない原理・原則、いわゆる"基本"というものがあり、それができなければ、応用などできるわけがありません。
武道では級、段や初伝、中伝、奥伝というように段階を追って、基本から応用へと進んでいきます。」(抜粋)

第九章 言葉の力
「ことばは"言霊"(とこだま)ともいわれるように、霊力があるようです。人が何気なく言ったことが、相手に勇気を与えたり、ダメージなどの影響を与えます。
特に大和言葉ができたころの古い言葉には、驚きや恐れなどの自然の響きや、心の内から出てくる響きが感じられます。
例えば、"ヒガシ"は"東"ですが、やまとことばでは"ヒムカシ"といいました。この意味は"太陽(ヒ)に向かう"という意味です。また、天(アメ、アマ)と空(ソラ)は区別されていて、ソラはわれわれのすぐ上の頭上、さらに高いところがアメ、アマでした。また、ソラが空虚でなにもないところに対し、アメ、アマは神々の棲み家で、とても充実した世界を指しました。」(抜粋)

第十章 問題は自分で探せ
「古来より武道では、技は盗んで覚えろといわれており、もともと人から教わるようなものではありません。しかし、技を盗むことができるのは、ある程度のレベルに達していて、その上よほどの問題意識をもって稽古をしている場合だけでしょう。これは、仕事の仕方にもいえることです。
自分の問題は自分で見つけ、その解決法も考えることです。社会では、学校の試験のように、解答が用意されているわけではなく、問題も自ら見つけなければならないのですから、ずっと厳しいといえます。教えられた事というのは、そのような過程を経ていないため、本当に自分のものではなく、身につくわけがありません。」(抜粋)

第十一章 外国人と武道
「西洋の社会で尊重されるのは意志力ですが、日本では自分の意思ではどうにもならない、より大きい"自然"を受け入れようとする態度が理想とされてきました。・・・とかく欧米人はどちらかというと物事を即物的に判断するので、『師』に対する考え方も日本人とは大分違います。欧米人にとっては、師は自分より技術が優れている人のことですが、しかし日本人にとっては、師は技術という一面的な存在ではなく、神の秘密の一端を伝える存在であったように思います。」(抜粋)

第十二章 性急過ぎる現代人
「社会の動きはますます早くなっており、結果のみを重視して、過程における努力や犠牲などは無視されがちです。しかし、結果だけを追って過程を無視すると、後の自分に何も残りません。我々は努力する過程から、本当はいろいろ学んでいますし、そこから本物の知恵を授かるのです。本物の知恵とは、自分が本当に困った時に助けてくれるような知恵です。後ろを振り返ったとき、何か自分に残るような、積み重ねとなる稽古や仕事をしなければなりません。そして、稽古や仕事と共に、知恵もついてこなければなりません。もっとじっくりと過程を大切にしたいものです。」(抜粋)

第十三章 新しい宗教哲学
「昔から各地域には土着信仰がありました。その後、土着信仰がカバーしきれないものを、いわゆる世界宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)がカバーしてきた訳ですが、科学が発達してくると、既成の宗教の世界観に疑問が生じてきます。
とはいえ時代が下っても人間の不安な気持ちが無くなるわけではありません。科学といえども不安や不合理をすべて解明することはできないからです。・・・・・現代人はこの内なる世界、自分の可能性を求めているのに、実際どうすればいいか分からないでいます。・・・・
合気道にはさまざまな魅力と可能性がありますが、その一つに新しい宗教観(世界観)があります。」(抜粋)

第十四章 目の錯覚と過信
「現代は情報が多すぎて、それを消化しきれないのに、新しい情報に接しないと不安になるというジレンマに陥っています。一つのことをじっくり、深く見るなどという事が、難しくなっているのです。
しかし、同じものでも、自分が変われば違って見えるし、違う部分も見えてくるものです。合気道の本部道場では、毎年、開祖植芝盛平翁の亡くなられた日に開祖の映画を上映しますが、その映画はいつも同じものです。一般的な意味では二度も三度も同じ映画を見るというのはあまり意味の無いことでしょうが、一年の稽古で自分がどれだけ変わったかを計るいい尺度といえます。前回見えていなかった所や、気が付かなかったことが、進歩に応じて分かったり、より深いものがみえてきたりするのです。変わったものを追うのもよいが、自分を変えて、ものをより深く見ることも大切でしょう。」(抜粋)

第十五章 スポーツの陰
「スポーツは本来このような問題を宿命的に内在しているのです。まず、スポーツは最終的には勝ち負けの世界です。勝つことが究極の目的となると、手段や過程は従となるわけですから、どんなに努力しても、負ければこれまでやってきたことが無駄ということになります。従って、薬を使ったり、故意にライバルに怪我をさせたりしてまでも勝ちたくなるのは当然でしょう。
合気道には試合はありません。従って、(我々は)合気道がうまくなっても、お金持ちにも有名にもなれません。ただ毎日コツコツと、自分が求めている完全な合気道の姿を求めて修行するだけです。そして、それが決して完成することがないことも分かっています。スポーツ的には意味のないことかもしれません。しかし、それがロマンなのです。実際、勝負に勝つというような目先の目標を達成したぐらいでは、人間は完全には満足できないはずです。」(抜粋)

第十六章 感じて、捉われない
「また、自分に捉われてしまうということもあります。合気道では相手から技をかけられる場合、一般的に腕を押さえられるとかしてどこかで接触して技をかけるのですが、接触している点を凝視したり、体の大きい相手に対して気持ちが萎縮してしまったりすると、自縛して動けなくなり、力が出せなくなってしまうのです。 実は、この問題が上達を妨げる大きい原因であるように思います。この問題の難しさは、精神的な領域に属することであり、他人に教えることが難しく、稽古だけの問題ではないという所にあります。先人達はまさにこの自縛に打ち勝つために、座禅を組んだり、山に籠もって修行したのです。」(抜粋)

第十七章 現代の若者
「現代の若者たちは、自分のことを認めてもらいたい反面、どこかで尊敬できる指導者を求めている訳ですから、年配者には反発と同時に劣等感をも覚えていることでしょう。こういう時、人生の経験者である年長者が本当は手助けをするべきなのです。でも、心理のタイプが違うのですから、年長者が思っている事を主張したり押し付けたりするだけでは、若者の心にはきっと届かないでしょう。」(抜粋)

第十八章 △○□
「合気道では、"△○□の気の熟したのを合気という"と言われる。△は気の力が生じることと、三角体という絶対不敗の体制、○は千変万化、円熟万技を生む体、□は精神と魂の安静を表わすシンボルといわれています。合気道の創始者である植芝盛平翁は、『心を円く、体三面にひらけ!』と、よく言われていました。
禅では、円相といって○を一筆で一気に描きますが、この円は真の自己、自己の真性であり、同時に一切のものの真性を表わすものとして、大切に扱われています。
また、ユング深層心理学では、△はダイナミックな働き、あるいは全体性の実現の過程、○は自然の全体性や、多面的な心の全体性、生命の究極的な全体性、意識と無意識の両方を含む心の全体性(=自己)、または心そのものの象徴、□は全体性の意識における自覚、地に根ざした物質、つまり身体や現実の象徴として解釈されます。」(抜粋)

第十九章 永遠に続くものはない
「ひとつのものが永遠に栄え、その地位に止まることは決してないのです。たとえどんなに安定し、繁栄していても、それがそのまま永遠に続くことはあり得ません。宇宙や地球といえども不変ではないのです。地球でさえ、これまでのような産業優先を進めていけば、住みにくい星に変わってしまうでしょう。
我々自身も昨日と今日では違っていますし、今日の朝と夕方でさえ既に違っているのです。現在やっている仕事もいつまでも安泰であるという保証はないし、それを取り巻く環境もまた変化します。だから、ひとつのことに安住せず、頼らず、次の変化に対応すべく心掛けるべきなのです。変化、発展、脱皮が止まった時には、今の地位を失うことになります。」(抜粋)

第二十章 感動
「産児制限運動を促進し、衆議院議員として活躍した加藤シズエさんは、90歳をこえてもなお現役で、講演などに活躍していました。彼女がこのように元気ではつらつと長生きできた秘訣の一つは"一日10の感動をする!"ことだそうです。
しかし、感動するには柔らかい心でなければなりません。心がかたいままでは、感動はできないでしょう。ということは、利益とか、効率だけを追求している心では、感動できないということです。
これから大事なのは、ソフトです。クオリティ・オブ・ライフといいかえてもいいでしょう。つまり、『人生の質』が大切になるわけです。
人生は思っているより短いようです。フランスの心理学者ピエール・ジャンヌが"60歳の人の主観的時間の経過スピードは、20歳の時の3倍である"といっています。つまり、20歳から60歳までは40年あるわけですが、感覚的にはその三分の一の13年しかないということです。
この短い人生に充実感を得る方法の一つは、感情を豊かにし、その日その時に少しでも『感動』することでしょう。」(抜粋)

第二十一章 愛
「人が最も成果を上げるのは、その人が真から"やるぞ"と思って、仕事に取り組む時です。それは、相手の"愛"を感じる時です。
人間には普段考えているより以上の能力やパワーがあります。しかし、それは本当にその気になったときだけ発揮されるのです。
子供は大人が考える以上に物事をよく見ているし、本質を分かっています。子供も周りからの愛を感じなければ、素直に伸びることはできません。
しかしながら、愛を与えるためにはエネルギーがいります。
現代の日本人は全体的に疲れているようです。武道やスポーツ等をやって、気力、体力を充実し、"愛"のある仕事や生活をしていきたいものです。」(抜粋)

第二十二章 対決と調和
「欧米文化が行き詰っているとよくいわれますが、自分を主張し、自分の権利を精一杯主張しなければならない競争社会に、一部の人はこのままではダメだと感じているのではないでしょうか。そのような人々は、日本のように競争が少なく緊張の少ない社会にあこがれているのです。スポーツに満足できず、勝負のない合気道を稽古する外国人にはそのような人達が多いようです。
しかし、物事は決して一面的にとらえてはいけません。欧米の競争社会、緊張社会には、それを緩和するものが沢山あるのです。それは宗教であったり、社会奉仕であったりしますが、日本が学ぶべきものもまだまだ沢山あるのです。」(抜粋)

第二十三章 知識と知恵
「知識は体験によって知恵に昇華しなければ意味がありません。知識だけでは人は動きません。頭で考えたことのすべてが正しいわけではなく、また人が納得してくれるとはかぎらないのです。頭(理論)だけで人や社会、国、世界を動かすことはできません。経済力、技術力だけでも駄目でしょう。人は感動を受け、共感してこそ動いてくれるのです。
戦後50年を経て、日本は有史以来の豊かさを享受し、世界の大国の仲間入りをするようになったところですが、これからが国として、企業として、また日本人として、そして人間として、いかに世界とともにうまくやっていくかの大事な時期だと思います。日本は世界に多くのものを求め、期待していますが、世界もまた日本に期待しているのです。
世界に流されることなく、世界に共感、感動を与えて、リーダーシップを取るような社会になるためには、知恵を大切にする社会をつくることだと思います。そして、それは人生の知恵を蓄えた老人を大切にする社会でもあり、人智を超えた知恵を持つ自然を大切にする社会でもあります。」(抜粋)

第二十四章 あなたが主役になる時代
「スポーツや武道でも、日本人が国や団体、あるいは企業や地域のために頑張る時代はそろそろ終わってもいいのではないかと思います。しかしながら、プロのスポーツ界、オリンピックや国際大会等にはそういう気持ちがまだまだ色濃く残っており、西欧と比べると選手が管理されている度合いが高いようです。自分が所属する国家や地域の名誉を挙げることを目的として、実力以上の力を発揮できたのは過去のことであり、今では、ただ選手のストレスを高めているだけではないでしょうか。ドイツや欧米の選手は本番で強いのですが、その秘密は個人の心構えにあると思います。かれらは、基本的に国や他人のために戦うのではなく、自分のために戦うのです。国の栄光の重荷を担ぐ必要もなく、のびのびと戦えるわけです。」(抜粋)

第二十五章 先人たちの英知
「何げなくやっている合掌についても、合掌の手が身体に平行である場合には、脳下垂体の機能が向上し、内分泌機能も向上し、それに伴ってホルモンの分泌も盛んになって、自律神経が正常に機能し始めるため、心理的に安定した状態となり、疲れていても落ち着いて気持ちがよくなるというのです。
習慣や常識として行ってきた合掌や拍手、神棚への塩や水、スポーツや武道での手の小指、足の親指に力を入れることなどは、無意識のうちに、身体のプラスになっていたのです。そのために昔から重んじられてきたのでしょう。
昔から引き継がれてきた動作の中には、先人たちの英知が込められています。この重要性に、現代人は今一度注目してみることも大切だと思います。」(抜粋)

第二十六章 力づくの社会からの共栄へ
「社会で生きていく上でも、自分さえよければというので、地位や財産を得ることに汲々としているだけでは、コミュニティー、家族、子供からのエールも得られず、本当の満足は得られないでしょう。
 地位や財産は力と同じで、力があれば強いと思い勝ちですが、かえってそれに頼って、本当の強さや幸せがわからなくなってしまいます。お互いが譲り合ったり、相手の立場に理解を示し、自分の立場もわかってもらうように、対話や交流をすることで、人間は成長し、知恵をつけていくのです。」(抜粋)

第二十七章 生命体の力を活かす
「これまでのスポーツとか武道では"念ずれば通ず"とばかり、大脳から指令を発すれば、神経がすべて命令を出して、手足が動き、力が出ると考えられていました。ところが、最近の生物学の研究では、大脳はおおまかな情報を出すだけであり、速度とか、角度とか、力かげんなどの微妙な調整は各々の筋肉が持つ知恵によって調節されているのだそうです。つまり、正しい技を行うのに力を出そうとすれば、脳神経系による大筋の命令を出す縦の組織系統と、多様な部分の共同作業を支援する組織の"免疫系"の両方が必要になるというのです。」(抜粋)

第二十八章 脳内モルヒネと自己実現
「このような時代に、私達はどのような目的をもって生きればよいのでしょうか。ご存じの方もあるでしょうが、アメリカのマズロー博士の欲求段階説というのがあります。1.生理的欲求 2.安全の欲求 3.所属と愛の欲求(社会帰属の欲求) 4.承認の欲求(自尊心と他社からの承認) 5.自己実現の欲求
人間はこのような低次元から高次元への段階を経て、より高度な満足感を覚えるようになるというのです。武道の稽古も本来は自己実現を目標として修行である筈です。
春山茂雄さんの『脳内革命』によれば、人間が本当に"いいな"と思うことをしている時は、βエンドルフィンという脳内モルヒデが出て満ち足りた気持ちになるといいます。この"いいな"と感じる内容は、自分の成長に役立ち、しかも他人や地球環境のためにもなるという願望であることが必要です。」(抜粋)

第二十九章 東洋の知恵
「西洋の効率主義はどうしても、目に見える結果を重視し勝ちです。すべてのものが数字で表され、その優劣を比較することになります。
しかし、人間は、精神という重要な働きをもっており、精神の力で考えたり、工夫したり、発見して、自分の中にある未知の能力に気付いたり、それを発揮したりしていくのです。すべてを精神力で解決できるわけではありませんが、人間の知性も元来は精神力から発しているのです。そして、その精神の持つ偉大な力に、我々はまだ十分気付いてはいないのです。
東洋は長い歴史の知恵として、精神が意外な強さを持っていることを知っていました。現代は自然科学があまりに急速に発達し快適な生き方に役立っている時代なので、多くの人は物質が豊かになることイコール幸福であると、知らず知らずのうちに思い込んでいます。しかし、豊富な物質に囲まれていても、又体力や国力に恵まれていても、それを幸せと感じるかどうかはまったくその人の精神の持ち方次第です。
自然と調和して悠々と生活を楽しむ生き方や、形ある物質のはかなさを感じ、人間的なものを優先する東洋の知恵、いわば鴨長明や兼好法師がもっていた思想を受け継いでいる私たち日本人が、世界の文化に果たす役割は大きいと思います。」(抜粋)

第三十章 いまを大切に
「武道の稽古というのは、本来命をかけるべく一瞬に自分の力をすべて出し切る修行をしているわけですから"二度目"はないのです。一瞬一瞬が"最後"で、失敗は死を意味するのです。チャンスは同じ条件では決して再びやって来ません。・・・・
人は決して未来や過去に身を置くことはできません。空間的にも"ここ"にしか居られません。"ここ"に居て、違う所には居られないのです。"いま""ここ"は現在・過去・未来の凝縮した時間軸と空間軸の交わった所でもあります。」(抜粋)

第三十一章 質の転換
「子供、若者、青年、中年、高年とそれぞれの時代を精一杯生き、年代が変ったら自分の体の条件に素直に従って、その時の生き方、やり方を自分なりに考えて変えていけば、ビジネスも稽古もより楽しく、自分のためにも、会社のためにもプラスになるでしょう。10年後の自分、将来の自分が楽しみにできないようでは、ロマンを失った生き方になってしまいます。」(抜粋)

第三十二章 挫折の克服
「稽古を本当に楽しく、長く続けるには、稽古を創造的に行っていかなければなりません。初心者ならいざ知らず、おなじ技であっても、今日のやり方は昨日と同じではいけないのです。自分の目指す目標に皮一枚でも近づく努力をすることが大切です。ビジネスの世界でも、創造的な仕事をしなければ、仕事が苦痛となる時がやってくるでしょう。芸術家に長生きが多いというのは、今度はこう試してみようかとか、どう直そうかとか、尽きることのない完全性を目指して創造的に今日を生きているからに違いありません。永久に到達できない目標を追って、創造的に明日を目指す人が、稽古も人生も長く生きることができるのです。」(抜粋)

第三十三章 もう二元論ではだめ
「これに対して、東洋の宗教や武道では、人間と自然界の区別が明瞭ではなく曖昧です。言い換えると、科学的な知識を育てることはむしろ少なく、心と体を切り離すよりは、むしろ対立を含んだ全体として捉える傾向が強いのです。
日本の武道では、自分と自然が一体化することによって、能力以上の力を発揮できると考えています。厳しい修行によって自然のエネルギーを体内に取り入れ、自分が今まで持っていなかった力を発揮したり、次元の違う体験をすることを求めているのです。西洋の宗教観からすると、神は人間とはまったく異なる存在ですが、日本では人間とカミとの境界もアイマイで、超自然な経験をした人や、極限までの修行をした人までカミやホトケとして祀られます。
武道とは、そのような境地に少しでも近づこうとする道なのです。」(抜粋)

第三十四章 調和はぶつかり合って
「ビジネスの世界でもおなじです。たとえ能力があっても、あたえられた仕事だけを無難にソツなく処理する受け身タイプの相手では本音が伝わらず、結局だれとでも通り一遍の付き合いになってしまいます。いつまでたっても職業上のペルソナ(仮面)をつけたままで対応しているからです。
本当の自分を知るためにも、時にはぶつかり合い、本音を出し合った付き合いをしてみるのもいいことです。ペルソナではなく一人の人間(個人)としてお付き合いする場が、人間には必要なのです。」(抜粋)

第三十五章 イメージの力
「人間は常に何かを手本にして模倣しながら生きている、といってもよいでしょう。それでこそ集団生活や社会生活を営めるし、文化も進歩するのです。誰もが現在の自分に満足しきって生きていては、進歩がとまってしまいかねません。「明日」を楽しみにだれもが生きることが、「生きがい」につながっているのです。
楽しみというのは、自分の持っている能力をホンのちょっと伸ばしてやることです。それは、他人と比較したり、社会的な地位や名声を得ることとは無関係で、現在の自分と比べて少しでも理想のイメージに近づけたいという純粋な喜びなのです。」(抜粋)

第三十六章 時間に乗る
「日常生活の中で合理的に考えたり、正しいとか間違いであるとか判断する時の思考法は、時間が日常的に続いている中で行われます。
しかし、身体の力を極限まで発揮している場合には、通常の時間を抜け出た意識や無意識が働きます。
日常の時間の中で使う意識や無意識は、ほとんど慣れきったもので、そこから新しい発想はあまり湧いてきません。
けれど、時間が止まっているように感じられる寝床でぼんやりしたひと時とか、急ぎの仕事を全速力をあげて片付けている時などに、ふといつもと違ったヒラメキやアイディアが湧いてきたりします。それは通常の意識が届かない深い無意識の底から、まるで海底からアブクが一つ二つ浮かんでくるような瞬間といえます。」(抜粋)

第三十七章 若者と老人、西欧と東洋
「西洋は力の世界、若者の世界ということができます。西洋は力、パワーがないとやっていけない世界なのです。力のない老人は社会の隅に押しやられるような、寂しくて厳しい社会です。それは、老人の知恵より新しい知識が尊ばれる社会だからです。それに対して、東洋は知恵の社会ということができます。知恵のあるのは老人ですから、東洋は老人が尊敬される社会ということになります。東洋は部分的な力やパワーよりも総合力を、人工的につくり上げた力より自然に逆らわずにつちかった力を、また、知識より知恵を大切にしてきた社会です。ここ数世紀にわたって、西洋流の力やワパー、若さ、知識等が我々の社会や世界を動かしています。科学が一方的に発達したため、その欠点も多く目につくようになってきました。西洋では今、このパワーが極端に発達し、老人や弱者はますます隅に追いやられています。東洋も否応なくこの波をかぶり始めました。」(抜粋)

第三十八章 人生は歌舞伎芝居
「人は必ず死を迎えます。それはわかっていても、人は一生懸命生きている訳です。生まれること、死ぬことは自分の意志に関係なく展開していきます。これを悲劇からロマンへと昇華するカギは、生まれてから死ぬまでの自分の人生をどう演じるかにあるのではないでしょうか。
自分を周りと比較して、立場や環境の変化、つまりストリーの変化ばかりに期待するのではなく、自分自身が変化するよう努めるべきです。主役の自分が一生懸命演じなければ、まわりの応援はありません。自分が変れば、接する人も変ってきます。人生は歌舞伎芝居。うまい役者を演じましょう。」(抜粋)

第三十九章 問題を見つけよう
「うまくなるかどうかのカギは、"問題意識"をもつかどうかにかかっているように思えます。まず、自分のどこに問題があるのか判らなくてはなりません。初心者のうちは無我夢中で稽古をしますが、稽古を重ねていくうちに、どうして体が大きい人を相手にすると思うように動いてくれないのだろうなどと、いろいろ疑問がわいてきます。その疑問が、自分にとっての問題となるのです。問題を大事にして、自分ならどう解決すればよいかを考えることが、問題意識をもつという事です。問題意識をもつのが難しいのは、自分をある程度客観視して、自分が苦手なところや伸び悩んでいるところはどこかと、問題を明らかにしないといけないからです。問題が判らないままにやっているのでは、いつまでたっても解決方法はみつからないでしょう。」(抜粋)

第四十章 形の大切さ
「合気道にかぎらず日本の武道、芸事は形を大切にしてきました。・・・
美しい形はまた、ジャンルを越えて人の心を打ちます。それは、形には、その人の内面的状態が現れるからです。正しい形を得るためには、何度も反復練習をするという肉体的習練だけでなく、長年の内面(精神)的訓練もまた必要です。形をよくするためには、実は自己を練磨・精進しなければならないのです。また、反対に、形を直すことで自分を向上させることもあります。」(抜粋)

第四十一章 壊すことが大事
「壁を打ち破って上達するには、いままで培ってきた動きや考えを一度壊してしまうしかありません。これでいい、「正しい」と、今まで信じてきたものを捨てるのです。自分のものを壊して、より真のものを求めるのは非常に勇気の要ることで、我慢や忍耐も必要です。一時的にせよ非常に弱くなる感じを自分でも受けますし、これまでの目標から遠ざかるような不安にもかられるものです。この不安を解消してくれるのは、それが自分の進歩や上達のために絶対に必要だという信念を持つことです。」(抜粋)

第四十二章 別世界に生きる
「自分自身をよく知るためにも、また仕事で得られない喜びや楽しさを知るためにも、時には会社や地位や名誉などに関係ない世界に遊ぶべきでしょう。合気道の道場では長年一緒に稽古している仲間でも、会社や地位、仕事の内容などほとんど話題にのぼりません。私もそのようなことには興味がありません。道場とは、先輩、後輩はあるものの、実力だけが評価される場です。
相手がたとえ高い地位や名誉のある人であっても、それだけでは自分のレベルアップに一つも役に立ちません。むしろそのようなものを脱ぎ捨てたその人自身の裸の姿が、良い刺激や教えを与えてくれるのです。
また、自分の好きな事や趣味に遊んでいる時は、仕事のこととか、さまざまな問題や悩みなど、世俗のことは忘れてしまいます。そのような時こそ、本当の自分やまわりの人の姿、あるいは世の中がよく見えるものです。」(抜粋)

第四十三章 譲り合い
「ビジネスの社会でも"他"を生かし、自分も生き、成長することが重要でしょう。理想は、合気道の理念の"共に勝つ"でしょう。
今後は、自分も他もともに生きる『共生』『共存』の社会でなければ、地球上の様々な危機に立ち向かえないでしょう。そのためには、自分もちょっと我慢するという譲り合いが大切だと思われます。」(抜粋)

第四十四章 これからの理念
「理念は、国を越えた普遍的な影響力を持っています。・・・・・
これからは、子どもを産業社会の労働力とみる教育から、個性的な人間を育てる教育へ、世界の人達と自然に付き合える本当の国際人であり、どんな突発事件や事故が起こっても的確に対処できるような人間を育てる教育へと、学校も家庭も変わるべきでしょう。
21世紀は20世紀の延長上にはないのです。もし、他に対して理念を提示できず、理解してもらえなければ、かってのカルタゴやスパルタのように地球上から抹殺されてしまうかもしれません。地球が争いのない"一家"となる理念のために、生きたいものです。」(抜粋)

第四十五章 知恵の価値
「今、見直されているのは、人間の本来もっている能力です。産業革命が起った18世紀後半から科学の知識が発達して、産業が盛んになり、モノが豊かにある社会へと発展してきました。そのせいで、次第に人は知らず知らずの内に、多くのモノを所有することが幸せであると錯覚するようになってきています。そういうハードだけでは、人は幸せにはならないのです。科学的知識は快適な生活を送るための必要条件ではありますが、幸せに生きるための十分条件ではありません。そういうものはかえって、人間が本来持っていた能力を奪っていると言えます。昔の人々は自然に囲まれた日常の中で、全人格的な体験をし、危険を察知したり、自分なりに対処法を考えたりすることで、自分の生活に本当に必要なものとは何かを判断する知恵を育んでいたのです。」(抜粋)

第四十六章 プロセス、プロセス
「得てして若いうちは結果を重視しがちです。成果が手に入ったり、ビジネスが成功したり、地位を獲得したりすることによって、満足が得られると思い込んでいるからです。しかし、人生のさまざまな体験を経るうちに、苦い勝利もあれば、ビジネスの成功にもかかわらず深い失望と挫折感を味わうこともあり得ることに気づいてきます。そして、成熟するにつれて、自分にとって本当に満足のいく仕事は、性急に結果を追い求めるのではなく、一つ一つのプロセスを大切にし、考慮し、周囲を傷つけないやり方によって得られるということが納得できるようになるのです。周囲の人間や環境も自分と共に満足できる時、人は深い喜びを覚えます。」(抜粋)

第四十七章 教えること
「昔の武芸は、師匠や先輩から盗んで覚えろといわれたようですが、意外と理にかなった教授法だったのです。これに反して、現代の日本の教育では、本当に自分のやりたい事をやらせるという発想が抜けており、ビジネスの世界にも及んでいます。人間はやりたい事をやる時はじめて意欲が湧き、労苦をいとわず、なんでも吸収できるのです。
仕事でも武道でも真剣にやっていると、人がふと言った言葉や偶然目にとまったものが大きなヒントとなって、それまで悩んでいた問題が一挙に解ける場合があります。また、ある技がどうしてもうまくいかず悩んだり、突き詰めて考えていると、夢うつつの時に解決法が示されることもあります。物事は他人から学ぶものではなく、自分から学ぶのです。」(抜粋)

第四十八章 殺す術、活かす術
「西洋では素手で戦って負ければ、ナイフや剣を持ち出し、ナイフや剣でかなわなければ、鉄砲や大砲を使用し、そして最後には原爆や水爆という武器にまで行きつきました。現代は、これより強力な武器が見当たらないので、睨みあっている状況です。ここに西洋的な物質文明の行きづまりがあります。
日本では、勝つために新しいものを発明したり、使ったりするよりは、新しい技を考えたり、技を練磨し、自分を向上させるという方法が好まれました。そうすることにより、本来殺す術であった武術においても、美と哲学が追求されるようになったのです。
相手を傷つけず、最小のダメージで制するために、いろいろな武術が考え出され、技が編み出されました。相手を傷だらけ、血だらけにするのは未熟者と軽蔑されました。そのため、急所の位置、そこに及ぼす影響、拳のにぎりや形、打つ角度等が研究されました。この急所は死活点ともいい、殺しの点であるのですが、同時に活かす(蘇生させる)点でもあります。名人になれば、相手によりその急所を使い分け、倒した相手を蘇生させることができました。」(抜粋)

第四十九章 発力と抱擁力
「けれど、日本人も自分の中心を持って発信すれば、相手を吸収する"抱擁力"と、己の意志を主張する"発力"という両方の面を発揮できるはずです。相反する面を共に兼ね備えて初めて、自分と異なる立場の相手を受け入れることができるのです。日本人として本当の自信を持てば、グローバルに自分を見ることもでき、多少のことで譲歩したり、イエスといったとしても、かえって世界から度量が大きいと評価されるでしょう。明治維新前後の頃も多くの日本人が欧米に渡航しましたが、当時の日本人の多くは、学識、見識、気高さ、それに日本人としてのアイデンティティを持っていたと、高い評価を受けていたのです。これからは、人も企業も国も、人類や地球、宇宙に役立つ理念とアイデンティティを持ち、それを発信し合い、また、お互いが違ったあり方であることを、認めるようになって欲しいものです。」(抜粋)

第五十章 見えない他方も大切に
「人は見えないもの、使わない所をおろそかにしがちです。右手を使うときには左手に、手を使う時には足に注意をすれば、技は効果的にかけられますし、動作も美しくなります。能や踊り、あるいはお茶のお手前を見ても、美しいと思われるのは、反対の部分が生き、働いているからです。お点前では、抹茶茶碗に抹茶を入れ、お釜から湯を注ぎますが、右手で持った茶杓から茶碗に湯を静かに注ぐ時には、膝においた左手にグッと力が入っているのです。」(抜粋)

第五十一章 長所は短所、短所は長所
「短所や欠点は、単なる短所や欠点ではなく、長所にもなるのです。それが長所になるか、短所としてとどまるかは、本人の考え方次第です。欠点や劣等感を長所のタネであると前向きに考え、それをバネに努力すれば、自分の長所、特長となります。気が短いタイプはすなわち決断力があって実行が早い人であり、熟慮型とか、周りからは何を考えているかわからないと言われるタイプは、実は実況判断が的確でイザという時に迷わないかもしれません。
自分の得意な面にかえって足を引っ張られたり、自信過剰になって落とし穴があったりするのが人生です。他人の活躍を羨むのではなく、自分の長所や短所に気付く方が、自分の足場をより堅固にすることになります。」(抜粋)

第五十二章 方向性
「〇〇道」と「道」がつくような習い事においては、目標とするところの道筋、方向が大切です。方向を間違えると、いくら頑張っても的外れになったり、進歩が止まってしまうことになります。
良師とは、技や形を示すことができ、さらにそれを弟子へと継承していける人のことですが、良師の最も重要な要素は、正しい方向性を持ち、それを追求し、弟子の誤った方向性を正していくことと言えましょう。」(抜粋)

第五十三章 体に聴け
「現代の人間は、自分の欲求や野心を実現しようと無意識のうちに駆り立てられています。だが、肉体の方は実際の自分の限界を感じ、危険信号を送っているのです。
肉体には肉体なりの知恵や判断があります。『今日は疲れがひどいな』とか『なんだか頭が重い』と感じる時、それは身体の方から送ってくる信号です。敏感にキャッチして、率直に聞いてあげると、ひどい疲れにつながったり、やみくもに気を紛らわせようとしてムダな娯楽や時間つぶしに走ることもなく、本当の心身の休息が得られます。
自分の体を信じ、体の声に耳を傾け、体とのコミュニケーションをすれば、一層よりよい仕事、人間性豊かな生活が送れるのではないでしょうか。」(抜粋)

第五十四章 ヒーローであれ
「人はみな、それぞれの"物語"を持っています。身の回りの物にも、それぞれの持つ物語があります。つまらなく見える物にも物語があり、その物語を知れば粗末にはできなくなるものです。だれもが自分に身近な人や物を大切にするのは、その物語をよりよく知っているからです。
一人一人は誰もが、自分の物語の"主人公"です。世間的な評価とは別に、生まれて死ぬまで、自分は自分の人生のヒーローなのです。」(抜粋)

第五十五章 儀式(セレモニー)
「世の中には、小さい儀式や大きい儀式が沢山あります。茶道や華道は、典型的な一連の儀式の稽古といえるでしょう。武道の世界でも、小さい儀式以外に大祭、鏡開き、開祖生誕祭などの大きい儀式があります。儀式とは、今とは別の世界への入り口であり、出口でもあって、そこに在ることを体験したり遊んだりすることだと思います。・・・・・・・・
儀式は、歴史を考え、継承し、未来に繋げるものといえます。儀式をすることによって意識が変わり、別世界に遊ぶことができます。」(抜粋)

第五十六章 さらに深く掘り進め
「何年もかけて一つのモノを精魂こめて見つめていくと、それが鮮明に大きく見えてきます。ひと筋の道を精進し、その道をどんどん深く掘り下げている人には、常人には見えない、より確かで、より深いモノが見えてくるようです。
ひとつの問題が解決すると、新たな問題が立ち塞がります。そうしてどんどん深い所へと入っていきますが、それはミクロの世界ともいえます。純粋に一つの事を追求していけば、それが自然に見えてくるのです。不思議なことにミクロの世界に深く入れば入るほど、マクロの世界もまた見えるようになります。
自分のまわりにあるもの、見えるものや聞こえるものはすべて自分に関係があるのです。それが関係ないと思うのは、ミクロの世界で十分な深さに達していないために、マクロの世界も見えないからでしょう。」(抜粋)

第五十七章 合理主義だけで満足できますか
「合理主義、功利主義だけでは、人間は本当の満足を得られません。例えば、人間がモノとして扱われたとき、機械的な正確性や規則性を限度以上に要求されたとき、自分の気持ちに忠実にいられないとき、人間的なコミュニケーションが欠けるとき等には、精神や心が満たされず、生きているという実感を得られないのです。ロボットでない人間は、合理的効率的に働き、生活しようとしてもムリなのです。
最近、日本では短歌や俳句に人気が集まっていますが、お金儲けや出世とは無縁のものであり、生きていると実感するためにやっているのだと思います。ゆとり、余裕、遠回り。これがこれからのキーワードではないでしょか。これらは、効率とはもっとも遠い所にあるものです。」(抜粋)

第五十八章 幻を追いかけていませんか
「ビジネスでも、自分の業界や会社が永遠に安泰で、給料は年々上昇すると思ったり、自分のポストや会社や業界が絶対的なものと信じ、青春や家庭を犠牲にしたり、会社のためと思って世間にウソをついたりするのは間違いです。世の中は変わり、仕事も会社も変わります。変わるものに引きずられて生きるのは間違いです。幻を追ってはだめです。
人生の設計は自ら考え、挑戦する時代が来たようです。そこではリスクとチャンスは自分の責任となります。幻に惑わされず、本質を追求したいものです。」(抜粋)

第五十九章 祈り
「人は心のよりどころを何かに求めようとします。特に、何か成就したいものがある時とか、問題を解決しなければならない時には、何かによりかかりたい心持になります。祈りの対象となるのは、超自然的な力です。その力に自分の思いを訴えることが祈りでしょう。自分より大きい力を自覚することによって、人は自分の卑小さを知り、大きい存在と一体化する経験を持ちたいと願います。」(抜粋)

第六十章 アイデンティティ
「私たちは、人間が幾億人いようとも、自分は自分であって、絶対に他の人とは置き換えられない人間にならなければなりなせん。アイデンティティとは、これまで定められていた役割や道を考え直して、自分の役割や道を自分で発見し直すことを意味します。これまでは定められたことをあまり考えないでやっていればよかったのですが、これからはよくも悪くも、自分で考えて選択しなければならなくなりました。『"選択"ということこそ、アイデンティティを考える際のキーワードである。』と言われます。『受動的な姿勢から、自分の好みに合わせて選び、積極的に探すと同時に、欲しくないものを拒否する"選択の姿勢"への移行』であるというのです。他と置き換えられない、明確なアイデンティティを持った国であり、企業であり、個人となりたいものです。」(抜粋)

第六十一章 整合と不整合
「・・・基本的な技ができ、体つきもそれなりにできてくると、今度は自分の創意と工夫が必要になります。ここからは、個人的な修行です。基本の稽古と違い、他人との差異が問題になってきます。名人は、すべて個性的で独創的です。基本的なことはすべて熟知したうえで、そこに個性が加わって技が熟成するのです。名人は、いわば基本に忠実で合理的な整合性と、そこからはみだした個人的で私的な不整合性を兼ね備えていなければならないと言えます。」(抜粋)

第六十二章 理性を超えて
「よく宮大工の削った柱は100年もつが、機械で削った木は20〜30年しかもたないといいます。この"肉体知"は、知性や理性では解明できないし、その技術を理論で作りあげることもできません。力やお金や見栄など、目に見える物や迷わされやすいものにとらわれず、見えないものや行間を見るようにしないと、その本質を掴みきることは難しいでしょう。これは、頭の知性や理性を超越したところにあるようで、体で感じるしかないようです。」(抜粋)

第六十三章 大事なものを失っていませんか
「以前はスポーツマンシップということがよく言われましたが、今は死語になってしまいました。スポーツは勝ち方がどうあれ、勝てばいいというようになってしまったのです。これも、豊かな社会をつくった資本主義の弊害でしょう。本来のスポーツは健康や楽しむためであったのに、金儲けの手段となってしまったのです。現代は、人は損得で、まるでデジタル信号のように動くようになってしまいました。損することはやらないし、他人のためとか、将来のために我慢するということが少なくなっています。これまでは、経済的に豊かになれば幸せになれるものと頑張ってきましたが、どうも幸せとはそれだけではないようです。
失ったり、置き去りにしてきたものには、大切なものがあったように思います。自分の気持ちや感情、人の気持ち、古人や先輩がつくりあげた知恵やノウハウ等を、改めて見直す必要があるでしょう。」(抜粋)

第六十四章 百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)
「『百尺竿頭』という禅の言葉があり、広辞苑には、百尺の竿の先、即ち到達すべき極点、と出ています。『百尺竿頭一歩を進む』とは、既に工夫を尽くした上にさらに向上の工夫を加える、また十分に言葉を尽くした後にさらに一歩を進めて説く、とあります。禅の方では、自分の限界まで努力して、もう先がないと思ったところから、思い切って飛び込めば、真の悟りが開けるということのようです。行き詰まったと思うところから、道は開けるのです。」(抜粋)

第六十五章 有頂天にスキ有り
「合気道の稽古で技がうまくキマッた時というのは、相手に思う存分打たせたり、つかませたりして、相手が十分ヤッタと思う時なのです。打たせまいとか、攻撃を避けようとすると、技が決定的に決まらず、相手を十分に制することができません。
相手を打った、切ったと思い込んだ時に、スキができるものです。」(抜粋)

第六十六章 自分を信じよう(最終章)
「武道もビジネスも、まずは目標を定め、できるかぎりの努力をしていれば、道は開けるようです。武道の稽古でも、ある技がどうしてもうまくいかず、何日も何ヶ月も考え、試し、悩み、試行錯誤していると、ある時突然その問題が氷が溶けるように解決するのです。仕事でも、問題や課題に挑戦していると、大概はいい解決策が現れてくれます。いろいろな情報と同時に、問題の解決策も、自分の周りを飛び交っているようです。それを捉えられるかどうかは、自分を信じ、問題がかならず解決すると信じ、真剣に取り組むことではないでしょうか。さらに、決めたら迷わずぶつかることも大切です。相撲でも、迷いのある立会いはいい結果をもたらしません。剣の無刀取りの極意にも、ためらわず敵の太刀の真下に飛び込めば、後は極楽で、敵を自由にできると言われています。」(抜粋)

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