【第135回】 好きこそものの上手なれ

歴史に残るような大仕事をしたり、現在でも人が目を見張るような仕事の成果をあげている人は、少なくともその仕事に惚れこんで、その仕事に没頭したはずである。好きになれない仕事や嫌いな仕事を嫌々やっていては、そのようないい結果は生まれるはずがない。

開祖が素晴らしい合気道をつくられ、残されたのは、開祖は合気道を我々が想像できないほど好きだったともいえるだろう。

人が好きなことだけをやって生きて行くことは難しい。多くの場合は嫌なことを我慢しながらやって生きていかなければならない。仕事は特にそうだろう。学校の勉強でもだいたいは嫌々ながらやっているだろう。だから成果が上がらない。

合気道の稽古は別に嫌々やっている人はいないだろうが、好きの度合い、密度は人それぞれ違う。他にやることがないからやる、他のものよりは好きだからやる、他のものと何か違うようなのでやる、他にはないものがあるからやる等から、本当に素晴らしいのでやる、これ以上のものがないのでやる等々、様々であろう。

しかしながら、合気道を本当に好きになれなければ、真の上達はないと思う。本当に好きになる、合気道にほれ込むためにはどうすればいいかというと、まず合気道を深く、広く知ることである。深く広く知れば知るほど、好きになることができるはずである。合気道に惚れ込めない、没頭できないひとは、合気道をまだほとんど分かっていないと言えるだろう。合気道とは、合気とは、道とは、合気道の目指すものとは、柔術との違い、宇宙のこと、体のこと、体の遣い方、息の遣いかた等々を、あまり知らなかったり、興味を持たないからだと言えよう。もしこのようなことが少しずつ分かってくれば、合気道がますます好きになってはまり込んでいくはずである。何故ならば自分の肉体と魂(精神)、自然、宇宙というものが分かり、自然や宇宙を自分に取り入れていくことができるものと方法は、今のところ合気道しかないと考えるからである。

好きになるには、疑いがあっても駄目であろう。中には合気道は実践的でないということで、合気道を小馬鹿にしながらやっている者もいるようだが、もってのほかである。合気道は柔術やスポーツなどとは違うことが分かっていないだけであるし、喧嘩や闘争の勝ち負けはその人同士のことであって、合気道とか空手とかが、勝った負けたということではないことも分かっていないだけである。また、合気道は相手が倒れるまでの過程(プロセス)を大事にするのに対し、武術やスポーツは、倒すとか勝つという結果を目的とするという違いがあることが、区別できないのである。

本当に好きになれば、時間や労力やお金も惜しみなく使うようになる。合気の修行が中心になって、他のことは従となっても、やがて中心になるものと全て結びついてくるようになるものだ。観るもの聞くもの、ほとんどすべてが大なり小なり関係づけられるようになる。そして、すべてのものに関心をもつようになってくる。すると、地球上のすべて、宇宙とも繋がってくることになる。本当に好きになれば、ブラックホールのようにすべてのものを吸い込んでしまうことになるだろう。

合気道は、真から惚れる価値があるはずである。とことん好きになって、掘り下げ、いろいろなものを吸引して行けば、上達すること間違いないと考える。