【第932回】 最大の敵との戦い

魄の稽古をしていた時期の敵は先輩や稽古仲間の他人であった。合気道は愛であり、相手と争う武道ではないと、大先生から耳にたこができるほど聞かされていたが、どうしても投げてやろう、決めてやろう、やられまいと技を掛け受けを取っていた。そして二教などの関節技で決まったり、相手の息を上がらせては喜ろこび、上手くいかなければ不満であった。
そして段々分かってくるのだが、どんなに強力に技を決めても相手は納得しないものだという事である。大体の場合は相手の反感を買い、二度と稽古をしてくれなくなるのである。
ここが魄の稽古の限界ということになると考える。この魄の次元の稽古から抜け出さなければならないわけである。

その為には先ず、どんなに強く、上手くとも相手が納得する技をつかわなければならないということなのである。だがそこで陥りやすい間違いをすることになる。相手に嫌がれないように力を抜けばいいと力を抜いた技を掛けるのである。しかし、これは間違った稽古である。何故ならば、稽古は上達するためであるわけだから、力を抜いた稽古では精進にならないからである。相手の稽古にはなるかもしれないが、こちらの稽古にはならない。

己自身、そして相手のためにもなる稽古をしていくにはどうすればいいかという事になる。つまり己自身も相手も納得できる稽古ということである。
己自身と相手は一心同体になるという事である。そうすれば相手を傷つけたり、怒らせるのは、自分を傷つけ、怒らせることになる事になるわけだからそうならないようにするわけである。

戦う相手は己自身ということになる。技は宇宙の営みで宇宙の法則に則っており、その営みと法則で技をつかわなければならないわけだが、身体や息や心は中々そうは働いてくれないから、働いてくれるように戦うわけである。そしてその戦いの結果を相対の相手が示してくれるわけである。上手く戦えば相手は受けでそれを示してくれるし、そうでなければそれが受けの結果にそう現われる。戦う最大の敵は己自身であるわけである。稽古はこの最大の敵との戦いということになるわけである。

高齢になると更なる最大の敵である己との戦いが起こる。足腰が弱り、稽古だけでなく、日常の歩行や立ち振る舞いもままならなくなるのである。その程度は人によるだろうし、程度の差があるようだが、誰もが年を取ればその傾向にあると思う。己自身の実体験と周りを見れば間違いない。
私自身の足腰の弱り方は酷いものだった。満足に歩く事ができなかったし、立ち上がったり、坐るのも大変だった。勿論、稽古も大変だった。
何とかしようと戦った結果、今では少しはましになった。この戦いは稽古以上に大変な戦いであった。相手がいない純粋な自分自身の戦、孤独な戦いであった。
しかしここで分かった事がある。それはこの戦いの対象は己自身であり最大の敵であるが、この敵を倒すために助けてくれたのがこの最大の敵だということである。この最大の敵が体調を戻し、整えてくれたのである。
つまり、最大の敵は最大の味方でもあるということである。
年を取ってくると力はなくなってくるが、宇宙の知恵が入ってくると言う事なのだろう。