【第936回】 気で見る

池大雅(下写真)の展覧会を見にいって来た。約40点が展示され、その中には国宝2点、重要文化財8点が含まれていた。すごく見ごたえのある展示であった。

池大雅は、伊藤若冲、円山応挙などが活躍した江戸中期の人で、中国絵画を手本に独自の画風で異才を放った文人画家であり書家でもあり、与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされている。

これまでも多くの美術展を見に行っている。お陰でいろいろ勉強になり、合気道の修業にも大いに役立っている。しかし今回の池大雅展はこれまでにない成果を与えてくれたのである。それは気で展示品を見る事が出来るようになったことである。そしてその気でこれまでの展示品では見えなかった事や気づかない事が見えるようになり、気づいたのである。これまでの展覧会でも作品をしっかり見ようとはしていたが、今回のものと比べると雲泥の差があり、これでは見えなかったのも当然だと思った次第である。
何故、気で見るようなり、気で見える事ができたのかというと、合気道のレベルアップのお蔭である。これまでの顕界の稽古から幽界の稽古の次元に入った事により、気で体をつかい、技をつかうようになったのである。幽界の稽古は気の稽古なのである。

合気道の稽古で、魄を下にすることによって気を出し、気を身体で覆う事ができるようになってきたことにより、腹から盆窪(ぼんのくぼ)に流れた気を目に流すと気で見ることになる。通常は気無し、合気道で云う魄の目で見ている。この魄の目で見ていて見えない場合は目を凝らして見ることになるが質的な変わりはない。
気の目で見る特徴やメリットを以前書いた事がある。例えば、お日様を見れることである。通常の魄の目で見れば目を傷めてしまうからお日様は見ないようにといわれている。しかし、大先生はいくらでもお日様を見る事が出来たし、よく御覧になっていたようである。私もお日様をいくらでも見ている事ができるし、毎日、見てご挨拶している。これは気の目、幽界の次元の目で見ているわけである。
この気の目で池大雅の作品を見て来たのである。お陰で、細かいものまで見えたし、これまでなら見落としていたようなボーっとしたものも見えた。また、不思議と動いていない人物や小舟などが動き始めたり、まさに動こうという動きなのが見えた。人物や舟は止まった状態に描かれてはいるが、気の目で見ると動きの過程にある瞬間を切り取ったものであると実感できるのである。また、目だけで見ると只の黒い点に見えるものが、気の目で見ると生き生きとした樹々や枝葉になるのである。
更に、多くの漢詩や詩文もあった。以前ならどうせ分からないのだからと飛ばしていたが、この度はわかりそうなものを気の目で読んでみた。そうすると書き順やここで撥ねたり伸ばしているなど作者の気持ちが見えるような気になり、文字に対してもより親しみを持つようになったのである。

気を出しながら一点一点見ていたので、手の先から足下、腹、目が疲れた。気を出し、つかう事にまだ慣れていないせいだろう。
しかし、合気道の技だけでなく、合気道の世界と別な美術の世界でも気は重要である事がわかった事は有難い。そしてここから更に他の分野の世界でも気が重要になるはずであると思うのである。物質文明の顕界から気の次元の幽界の次元で見たり、つくったり、活動するということである。合気道の役割は重大である。