【第928回】 形はない

前回は美術家の篠田桃紅の神業について書いた。天から降りてくる何かが絵を描いてくれるので、己自身は力もいらないし、描いている自覚もなく、そして最終的には絵ができ上がっているというのである。彼女の絵を見ると、人が意識して線をこう引こう、形をこうしようなどという絵ではない。                      

大先生の描かれた書「合気道」(写真)を道場で60年来いつも素晴らしいと拝見している。
自然で力強く飽きがこない書であり、いろいろな事を教えてくれるのである。昔、先輩がこのような書は大先生の他は誰も描けないといっていたのを思い出すが、その通りに思う。
何故、大先生にしか描けないかの理由が、篠田桃紅の言ではっきりした。つまり、この書も神業で描かれた書なのである。そしてこの書は合気道の教えにもなっているのである。つまり、神業が働くような技の錬磨をしなさいと示しているのである。合気道は魂の学びであることを書が教え、見張っているのである。

篠田桃紅の書と大先生の書は神業の書であるが、全然違う。そこでこれを機にどうしてこのような違いができるのかを合気道の教えに則して考えてみた。
合気道の技の形、姿には剛、柔、流がある。書には櫂、行、草がある。大先生の書は剛主体の柔流があり、篠田桃紅の書の主体は草であるが櫂も行もあるように感じる。合気道の教えでは、三元の各々には更なる三つの働き(三元)があるというから、剛には剛の剛、剛の柔、剛の流、柔にも柔の剛、柔の柔、柔の流、流にも流の剛、流の柔、流の流があるわけである。恐らく櫂、行、草の書にも、櫂の櫂、櫂の行、櫂の草があり、行の櫂、行の行、行の草、草の櫂、草の行、草の草があることにあるだろう。

「合気道」という文字の形、「天」、「ともしび」、「ゆきあかり」という文字の形に基づいて書をしたためたことは間違いないが、形を超越している。これがわれわれ見る者を魅了していると思う。形を超越しているということは形がないということである。只の形だけなら活字のようで面白くない。
大先生は「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである。」といわれているのである。つまり、魂の学び、魂、神の技になれば形はなくなるという事なのである。魄の形ではなく、魄の形があって形のない文字なのである。

正面打ち一教とか四方投げなどの形を変えてはいけないが、その形に囚われて技にするのではなく、無意識に、魂(神)に仕事をお任せするようになることが形はないということだと考える。そして形を土台にするが形にとらわれない技をつかえるようにしていきたいと考えている。