【第937回】 ○△□ (その1)

合気道には形がないと大先生は云われていた。そのためか合気道の技の稽古ではこれが決まった形であるとか、この形で技を掛けなければならない等とは教わらなかった。そして形がないなら相手を倒せればいいと自由にやればいいとばかり好きにやっていた。しかし何となくそれはおかしいし、間違っているのではないかと思っていた。習い事はすべて形から入り、その形をきっちり身に着けなければならないからである。合気道も言うならば一つの習い事であるから形があり、その形を身に付けなければならないと考えたのだ。

合気道にも形はある。例えば、正面打ち一教、二教・・・、四方投げ・・・等である。しかし大先生は合気道に形はないといわれているわけだ。このパラドックスを次のように考える。
一つは、正面打ち一教、二教・・・は形ではないということである。形ではなく技である。故に、正面打ち一教、二教、四方投げの稽古を技の稽古というのだと思う。自主稽古でも技の稽古をしようと云うが、形の稽古をしようとはいわない。

二つ目は、合気道のパラドックスである。形があってもないである。合気道には力は要らないのパラドックスがあるがそれである。力をつけるがその力をつかわずに気や魂をつかえということである。力が要らない武道などない。
ということは、形はないように技と体をつかうのが理想(最終段階)であるが、まずは形をしっかり身に着け、その形に技と体をはめ込んで技を練り、そして最後はその形がないようにということだと考える。

三つ目は、形があっても形はないのもう一つの解釈である。目に見える顕界の形と身に見えない次元の幽界・神界での形があることである。大先生の言われる合気道には形がないの形は顕界での形と考える。この顕界での形は必要ないということで、そしてもう一つの幽界・神界での形は大事であるということだと思う。目に見えない次元での形はあるということである。目に見えないが形はあるが形はないということである。
その形は○△□である。それは稽古を続けてくると分かってくる。この形に技と体をはめ込まなければならないのである。この形と違った形になれば技は上手くつかえないのである。この形は目に見えないこともあって人に教える事も他人から学ぶことも難しい。自得するしかない。すべての技が○△□に収まるように、身心と対話しながら稽古するのである。

何故、○△□が大事なのかと云うと大先生が次のように言われている事である。「合気道は大自然の絶対愛を基として、体を△に象り(かたどり)、○を中心に、気により△□の変化と気結び、生産びを身体に現わし、生み出しつつ気魂力を養成し、皆空の心と体を造り出す精妙なる道である。」
つまり○△□こそが気魂力を養成する合気の道であると言われているのである。合気道をやっている、合気道の技をつかっているとの実感をもち、合気道を堪能するためにはこの○△□が大事なのである。

○△□を具体的にどのように形にするかは次回にする。