【第193回】 まじめと不良

年を取ってくると、人はどうも頑固になってくるようだ。頭の融通が利かなくなってくるのである。自分がこうと決めたこと以外は容認できないようで、自分が思っていることと違うと癇癪を起こしたりする。

頭だけでなく、体も頑固になる。体も思ったように動いてくれないし、動こうともしなくなり、必要以上の余計な動きをしなくなる。

学校でも会社でも社会でも、あれをやっては駄目だ、こうやりなさいと、規制や制限が多い。規制や制限がなければ、学校も会社も社会も秩序が乱れて機能しないから仕方がない。それは彼らの使命であり仕事である。その規制や制限を破らないひとが、彼らにとっての「いい人」ということになる。

人は自分も「いい人」になろうとする。その方が容易でメリットがあると思うからであろう。そして、それが浸透してくると、言われたこと、決められたことはすべて従順に従おうとするようになってくる。まわりの社会に縛られるのに慣れてくると、今度は自分を自分で縛るようになる。

従順は組織や社会にとっては有難いことであり、社会にも問題は起こらない。 しかし、従順な本人には、問題を抱えるのではないだろうか。何事にも素直に従っていける人は、それはそれで幸せでいいだろうが、そうでない人には問題であろう。

例えば、いい学校に行き、いい成績を取り、大会社に勤めれば幸せになると、社会も学校も家庭も教える。それで、みんなそうする。それが出来た人は問題ないだろうが、出来なかった人やそのラインから外れた人たちは不幸になってしまうことになる。

他人も社会も、大体は自分のために都合のいいように言うものである。こちらのことなど、あまり考えていない。そうであるから、結局は自分のことは自分で考え、決めていかなければならないことになる。人の話は、半分は信用できるだろうが、後の半分は疑ってみた方がよい。こういうのは、社会の目から見れば「不良」ということになるのかもしれない。

早稲田大学の池田清彦教授が朝日新聞(2009.12.6)に、「まじめで従順の危うさ」という記事を書かれていた。この中で、「すこしでも悪いことを徹底的に排除しようとするあまり、社会も個人もかえって不健康になっているみたいだ。」と言われている。また、その中で、免疫学の世界的権威の一人、奥村康先生の『「まじめ」は寿命を縮める 「不良」長寿のすすめ』を紹介している。

日本に自殺が多いのも、ガンになりやすいのも、長生きできないのも、「まじめだけれども不寛容な人が増加しているせいだ」と言われているが、そうだと思う。 風邪を引いたから、薬を飲む、医者に行く、健康診断をしないと心配である、酒を飲むとガンになる、脂肪分を取るとメタボになる等など気にしたり、心配して生きていれば、かえって病気になってしまうはずである。

高齢者になれば先が見えてきているのだから、今までの周りへの従順さをすてて、自分に従順になったらいいのではないだろうか。好きでこれまで何十年も続けてきた酒やタバコを、無理してやめることはない。自分の心も体も、自分にいいことを言ってくれるはずである。その声に耳を傾けるのが一番よいだろう。

それは時として社会の声に従順ではなく、「不良」と映るかもしれない。だが、他人に迷惑をかけない限り、「不良」でもよいではないか。