【第1012回】 若者の鏡となる

人は生まれては死んでいく。生まれようと思って生まれて来たわけではない。だから何故生まれて来たのか、そしてどう生きればいいのかはよくわからない。よくわからないままに生きていくことになる。
生きるためには食べなければならないし、着るモノや住むところも必要になる。だからその為のお金を稼ぐ事になる。赤子や幼児の間は親が稼いでくれることになる。社会のシステムの中に生きる事になる。そして人は社会に貢献することが生きることであると思うようになる。そして人は多種多様な分野で活躍することになる。
しかしながら、社会に貢献するのは一般的に若い内である。定年を過ぎるとその社会貢献はできなくなる。これが今の高齢者問題であると考えている。だが、同じ人である高齢者も社会貢献ができるはずだし、しなければならないと考えるので、この論文を書くことにする。

高齢者は、物質的社会貢献はできなくなる。労働力は無いし税金(所得税)も払わなくなる。しかしできる事はある。若者のように直接的な貢献ではないが間接的貢献と云っていいだろう。
先ずは、合気道の世界でみてみる。大きな意味での社会貢献と考える。
一言で云えば、若者の鏡になることである。若者に高齢者になることに不安を感じさせず、年を取る事を楽しみにさせることである。年を取ってもしっかりと手足が動き、技を使えることを示すのである。そして若者にどうしても出来ない技を年寄りが上手く使って見せてやるのである。技を精進している若者は、それを何とか会得したいと思うはずである。そしてある程度年を取らなければそれを会得するのが難しいことが分かるはずである。とりわけ高齢者が若者の鏡になると思うのは、異次元の合気道である。若者の物質文明の顕界の稽古に対して、目に見えない幽界・神界を示す鏡となることだと考えている。
その鏡は私の場合は、有川先生であった。あのような技を何とか会得したいと思っていたが、年を取らないと難しいということも分かっていた。そしてそれが今やって実証されたというわけである。有川先生は、私の鏡であったということである。

勿論、若者のための鏡は合気道だけではない。日常の立ち振る舞いや生活においても鏡でなければならない。合気道の技は上手いが日常の振る舞いが今一つどうもとなってはならない。悪いものを写す鏡にならないようにしなければならない。
そのために、合気道では真善美の探究や気育・徳育・体育・常識の涵養で鏡を磨かなければならないと教えられている。これらも若者の鏡となるように常に磨いていかなければならない。
高齢者として、最低の社会貢献であろうが、若者の鏡になれるように生きていきたいものである。