【第459回】 魂の稽古と魄の稽古は紙一重

合気道は精進のために、また、宇宙の意思である宇宙楽園建設のためにも、魄の稽古から魂の稽古へと移らなければならない、と教えられている。確かに、魄(体力、腕力)に頼った稽古をし続ければ上達は止まってしまうし、場合によっては体をこわしてしまうこともあるだろう。

合気道は武道であるから、力も体力も気力もつけなければならない。これは武道の基本であるし、これらの力(魄)が十分に鍛えられなければ、次の次元の稽古で苦労することになる。

なぜならば、それまで鍛えてきた力(魄)は稽古の土台になるからである。土台がしっかりしてないと、これを動かす魂(気持ち、心、精神)もそれ相応にしか育たず、技も効かないことになる。

技が効くためには、土台がしっかりしていて、さらに、その土台を動かす魂を養成することである。従って、土台はしっかりしていればいるほどよいのであるから、土台になる力、体力、気力も鍛え続けなければならない、と考える。

さて、「合気道の思想と技」の第457回「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」第458回「うの言霊」では、魂の稽古をするためには、魄を土台(手)にして、魂(気持ち、心)が上になり、そして、魄(手、腕力)が下になるように稽古していけば、合気道が求めている魂の世界の稽古に入ることができ、魄とは異質で偉大な力を得るだろう、と書いた。

魄(力、体力)がついてくると、その力をつかって技をかけようとするものだ。そして、それが5年、10年、20年と続くのである。多くの稽古人は、力では技が効かない事に気がつくのが遅いようで、気がついたときには、体を壊してしまったり、再出発するための元気が失せて引退ということになるのではないだろうか。

ただ、誰もが稽古している稽古、つまり魄の稽古と、次の次元である魂の稽古の違いは紙一重である、と考える。紙一重ではあるが、異質なものなので、切り替えるのが難しいのである。

もし理論的に分かったとしても、そのような稽古は簡単にはできないだろう。それは、やるべきことを順序よくやり、身につけた上でなければ、できないものだからである。例えば、手足を陰陽につかう、息に合わせて手足をつかう、手足、体、息を十字につかう、手足は腰腹と結び、腰腹で手足を動かす、そして天の浮橋に立つ、等々である。

これがある程度身に着けば、それまでの力や体力に頼る魄の稽古から、紙一重の違いである魂の稽古に入れるはずである。

例えば、しっかり相手に持たせた手で技をかける際に、どうしてもはじめに持たせた手を動かすものである。相手が弱ければ、その手は動いて相手は崩れ、倒れてくれることになるが、相手との力が同等以上になると動かなくなり、時には争いになってしまうことになる。

これに対して、魂の稽古は、心、気持ちである魂が優先の稽古になるから、持たせた手を動かすのではなく、その手を土台にして、まず、息と気持ち、すなわち息の中に気持ちを入れた魂で技をつかうのである。すると、魂の思うままに体が動くことになるのである。

魂の稽古がわかりやすく、入りやすい稽古は「諸手取呼吸法」だろう。持たせた手を動かそうとしても、こちらの一本の手に対して相手は二本であるから、理論的には動かないわけである。魄(力、体力)では限界があるわけであるが、
この二倍の魄を動かすことができるのが、魂ということなのである。

かつて有川先生は、「諸手取呼吸法」ができる程度にしか技はつかえない、といわれていた。これは、「諸手取呼吸法」で魂の稽古ができる程度にしか技はつかえない、ということだったと思う。

つまり、持たせたところで手や体を先に動かすか、あるいは息と気持ちの魂を先行させるかの違いが、魄の稽古と魂の稽古の違いということになるだろう。だから、「魂の稽古と魄の稽古は紙一重」ということである。