【第458回】 「う」の言霊

前回の「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」では、魄を土台(手)にして、魂(気持ち、心)が上になり、魄(手、腕力)が下になるように稽古をしていけば、合気道が求めている魂の世界の稽古に入ることができ、魄とは異質な、偉大な力を得るだろう、と書いた。

この「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」を技の錬磨で稽古するときには、息のつかい方が重要である。相手と接触し、一体化するためには、まず息を吐き、そこから技をつかうのに息を入れ、そして、技をおさめる際はその息を吐くのである。これを間違えると、「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」ことはできないはずである。

「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」を、実際に技稽古でつかうと、霊魂の修業となるわけである。例えば、抑えられた手を動かすのではなく、手は動かさずに息と気持ち、つまり、息を入れ(吸う)ながら、その中に気持ち(心、精神)を入れて、技をかけるのである。つかませた手は、その息と気持ちに従って動き、技となる。

これを開祖は、体を土台として、その上に霊、魂を働かすと、霊の思うままに体が動くことであるようになる、といわれている。(「武産合気」)

開祖は、よく「う」の言霊が大事である、といわれていた。開祖によれば、「う」は霊魂のもとと物質のもとであり、二つにわかれて働きかけ、一つは上に巡ってア声が生まれ、下に大地に降ってオの言霊が生まれる、ということである。

技をかける際は、息を入れながらやるわけだが、この「う」でやるとよいようである。接している相手が浮き上がって、重さが消えていくし、また、地に足、体が密着するようになる。「う」には○と□の二つの働きがあり、その働きが霊魂のもとと物質のもとの霊魂なのであろう。

これは、「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」ものと同じである。つまり、この「魄を土台にして、魂を上、魄を下にする」は、「う」の言霊ということになる、と考える。

「う」の霊魂には、魄の世界、物質科学では信じられないような力があるようである。ここには、その数例をあげてみる。

  1. 「火事場の馬鹿力」など物質科学では説明できないが、まさに「う」の言霊のなせる業であると思う。自分の力や体力などを考える前に、命に代えても何とか持ち出そうとする一心により、土台である魄(体、体力)とはけた違いに大きい魂(気持ち)の異常な、膨大な気持ちが働く結果だと考える。
  2. 開祖の師でもあった大東流柔術の武田惣角が旅先で体調をこわし、旅先の旅館で床に臥せていた時に、見舞客がくると、横になったまま見舞い客に手を出してつかませたが、手をつかんだ見舞客は浮き上がってしまった、と伝えられている。
    これも、つかませた手(魄)をはじめに動かさずに、魂(気持ち)で相手を浮き上がらせてしまったのであろうと考える。
  3. 開祖は大本教で修業中に、大の男数人でも動かない樹をお一人で動かしたということである。その時、出口王仁三郎が木に向かう開祖に対して、「これは『う』の言霊だな」といわれたという。
    二代目吉祥丸道主はある書物(どこにあったが忘却)で、開祖は「うん」といってその気を動かしたと書かれているから、開祖が「う」の言霊をつかわれ、その言霊の偉大さが語りつがれた、ということである。
「う」の言霊を研究し、身につけていかなければならないと考える。