合気道の目標は地上楽園の建設であると教わってきた。合気道の大乗の目標である。小乗の目標は宇宙との一体化である。小乗の宇宙との一体化は大分以前からわかり稽古をしてきたので、後はこの大乗の修業を続ければいいだろう。
問題は、合気道が社会をよくし、地球上の万有万物を幸せにし、地上を楽園にするということである。これまでは失礼ながらそれを信じることができなかった。が、突然その可能性はあるし、そうなるように合気の修業をしなければならないとなったのである。
自主稽古時間で気の稽古をしていたとき突然閃いたのである。相手に手を出してもらった手の上にこちらの手を載せると、我が手は彼の手にくっつき、我と彼は一体化する。彼が手を持ち上げつとしても下に下そうとしても我が手はくっついて離れない。
しかし、彼が我が手に手を置いてもくっつかないし、くっつけようとして我が手を押し下げると我が手は彼の手から離れてしまうのである。これでは合気にならないわけだが、その原因は、相手をやっつけようとする魄の力が働く事だと見る。相手をどうこうしようとした瞬間に、相手のことを忘れてしまい、相手が競争相手であり、敵になってしまうのである。
相手の事を忘れ、無視して動けば折角一つになったものがまた二つに分かれてしまい、競合し、争いの種をつくることになる。
我が手は彼の手にくっつき、我と彼は一体化すると彼の気持ち(心)の動きがよく分かるようになる。抑えられた手を上げようとしていたり、下げようとしたり、また逆らおうとしたり、引っ付いた感触を享受しようとしている等である。
我が手が作為的でも人為的でもなく動けば相手の自然な姿が見えてくるのである。そしてどんな相手でも己より優れたものを必ず持っている事、そしてそれ故にどんな相手にも敬意を払わなければならないと思うようになるのである。所謂、無になるということだろう。自分よりも元気であるとか、受け身が上手いとか、力(腕力)が強いとか、スタミナがあると等々である。また、道場の外でも自分より優れていると感心させられる事もある。例えば、稽古仲間の一人はトイレにある5,6足のスリッパをいつも綺麗に揃えて出る。自分も綺麗にしてはいるがどうしても彼には敵わない。故に、後輩でも尊敬している。もう一人の稽古仲間は、食事した後のお皿が舐めたかのように綺麗なのである。カレーライスでもスパゲッティでもサラダの皿でも綺麗で気持ちがいい。私も挑戦しているが駄目であるし、これから頑張っても駄目だろう。敬意を払うしかない。
気で相手と一体化できるようになったことと、人を尊敬するようになったことを書いた。自分が変わったということである。若い頃は、稽古相手も社会の人も自分の競争相手であり、敵であると思い、負けないよう、勝たなければならないと稽古をし、勉強をし、仕事をし、生きてきたといってもいいだろう。
それが変わって、稽古相手はいい社会、地上楽園をつくるための仲間であり、力を合わせて頑張る同朋であるとなったのである。逆に言えば、そうなったから相手と一体化し、相手が見えるようになったということになるだろう。
道場外でも、電車に乗っている人たちもそう見えるし、街を歩いている人達もそう見える。誰もが自分より優れているものを持っているし、やっているということである。そしてみんな頑張ってくださいと思うし、元気で楽しく過ごして下さいと願うようになる。子供は健やかに育つよう、若者は自分の使命を見つけそれを全うできるよう、高齢者にはこれまでの使命達成の感謝とますますの健康長寿を祈るようになる。これを愛というのかもしれない。合気は愛の武道とはこういう事なのだろう。
これこそが今回の主題である「合気は地上楽園を建設できる」でないかと思う。そして合気により地上楽園の建設はできると実感した次第である。
合気を修業している稽古人が一人でも多くこれに気づき、共にこの目標に向かっていけば大先生も喜んで下さるはずである。