【第97回】 山彦の道

合気道の「わざ」で相手をうまく倒したり、極めたり、押さえるとき、力とスピードとリズムが大事である。力には、肉体的な力と精神的な力(精神力、こころ)がある。肉体的な力とは合気道では呼吸力という遠心力と求心力を兼ね備えた力であり、精神的な力とはいわゆる精神力である。どちらも大きいに越したことはなく、更に大きくするためには、一生修練を続けなければならない。

スピードとリズムは、日本語では「拍子(ひょうし)」(物事の調子・具合・勢いなど)ということになろう。合気道の拍子は、形と時間の「渦」である。大きく動きはじめて小さく収めるか、小さく動きはじめて大きく収める。一般的にやられているもので典型的な「わざ」は、前者が二教裏、後者が三教だろう。もちろん、この「わざ」も他のどんな「わざ」でも、両方の「渦」で出来るし、出来なければならない。

この渦の「拍子」は、渦の形、渦の軌跡である。渦は渦潮(写真)や星雲や台風の目のような、自然のエネルギーの姿である。また時系列からも、切れ目のない、無駄の無い「渦」の動きでなければならない。つまり、動きの軌跡が直線的であったり、時間の流れが切れたり、平坦であっては駄目ということである。

いい「拍子」で動けるためには、相手と一つにならなければならない。つまり相手と心身が共鳴しなければならないということになる。共鳴しなければ争いになり、バラバラな動きになってしまい、相手を拍子にのせることはできない。共鳴するためには、相手に触れた瞬間に相手と合気し、一体化することである。一体化してその共鳴を崩さないために、「わざ」は無駄の無い、つまり自然、宇宙の運行に逆らわないものでなければならない。

次に共鳴しなければならないものは、見えるものと見えないもの、顕界と幽界の響きとの共鳴であるという。これが「五体の<響き>が宇宙の<響き>とこだまする<山彦>の道」(開祖)と言われている。宇宙の響きと合ってこだまするから、相手も共鳴するのである。顕界での意識で逆らおうとしても、幽界の無意識では共鳴し、こだましてしまうのである。例えば、二教の裏などを掛けるとき、心と体と息が「拍子」にのって陰陽で無理なく、渦状で動けば、相手は意識ではやられたくないと思って逆らおうとしても、無意識に相手に共鳴し、自然に無理なく、自ら倒れてしまうものである。

開祖によれば「五体の〈響き〉が宇宙の〈響き〉とこだまする〈山彦〉の道こそ合気道の妙諦にほかならぬ」ということである。それ故、五体は宇宙の響きがこだまするよう、出来るだけ敏感にしておかなければならない。また手足、体幹が居ついたり、自然に動かなければ、宇宙の響きはこだましないので、五体の使い方も注意しなければならない。開祖は晩年よく神様に祝詞をあげておられたが、これも「山彦」の五体をつくる修行の一つであったのかも知れない。確かに祝詞やお経をあげると、体全体が共鳴箱のように震えるし、上手な人があげる祝詞やお経を聞いていると、自分の体が共鳴箱のように共鳴する。この共鳴箱である身体を敏感にしていけば、周りの生き物、自然、宇宙の響きに共鳴できるようになるのではないか。

宇宙の響きを感ずる五体をつくり、五体の響きが宇宙の響きにこだまする「山彦の道」でいきたいものである。これが合気道の妙味であろう。