【第63回】 見えないものを見る

合気道の道場稽古では師範が形(かた)を示し、稽古人がその形を稽古する。通常稽古する形はそれほど多くないので、同じ形を何度も何度も繰り返して稽古することになる。初心者のうちは、その形を覚えると合気道はわかったような気になり、中にはその段階で人に教えたりする。しかし、この段階では形も出来ていない。何故なら、技や動きも出来ていないし、形の意味、その形が求めるものなど、見えないものがまだ見えていないからである。

昔の柔術などは戦いの技術であったので、技は人になかなか見せなかったし、見られても肝心なことは分からないようにしていた。その時代、技は師範や先輩に投げてもらったり、押さえられたり、直接先生に触れることで覚えるしかなかっただろう。見る目は大切だが、限界もある。大事なことは見ても分からないもので、肌の感覚や直感でしかわからないことがある。

物質文明といわれる現在は、視覚に最大の重点が置かれており、人は目に見える表面的なことに惑わされて、本質を見失う傾向にある。店先にならぶ赤いリンゴは形が美しく、大きさが均等で光沢があれば、人は高く買っていく。最も肝心な味を売りにしている店は皆無である。これは見えるものしか信じない人が多いからであろう。化粧をし、外見だけをつくろうのはリンゴだけでなく、人間もそうである。外見だけよければいいとばかりに、電車の中で入念に化粧をしている姿をよく見かける。人前で化粧をして、自分が化けている浅はかさを見せているわけだから、どんなに美しく化粧しても、その人の評価は下がる。

合気道の稽古においても、稽古相手などをどうしても外見で判断してしまいがちである。しかし、稽古の上手下手、合気の強さは、外見と完全には一致しないものだ。いや、見ただけでは、ほとんど分からないものである。相手の上手下手や、力量が最初に分かるのは、相手が手を握ってきたり、掴んできたり、相手と触れた時である。勿論、名人、達人になれば、相手を一目見ただけでその人の力量を知ることができるだろう。

見えるものには限界があるというのは又、今、自分のいるところのものしか見えないということもある。しかし、見えないものは無限にあるものだ。見えないものには、今いるところのものだけではなく、過去や未来もある。先ほどの例で言えば、名人、達人になれば、人の下駄や靴底の減り具合でも、その人の力量を見抜けることだろう。

稽古でも目だけに捉われず、開祖や名人達人の技や動きをイメージし、どのような気持ちでこの技をやられていたのか、どうしてこのような技ができたのか等を考えながらやるのもいいだろう。見えないものを見る修練をしていけば過去や未来も見えてくるのではないだろうか。