これまで合気道の永遠の主要な稽古は、技の錬磨を通しての、法則の発見と呼吸力の養成であるだろうと書いてきた。
それ故、呼吸力を如何に身につけていくかが重要になるが、最近、新しい発見があったので、今回はそれを研究することにする。
まず、呼吸力について、又、呼吸力の重要性などが分かっているつもりであったが、まだまだ不十分で、分かっていなかったことが分かったことである。
大先生がまだご健在で、道場にもちょいちょい顔をお出しになり、技を示されたり、道話をされていた頃だが、誰かが気を入れなかったり、力を抜いた稽古をしているのを見つけられると、お怒りになられたので、我々は常に力一杯稽古するようにしていた。
そういう関係から、諸手取呼吸法はよく稽古をした。大先生も諸手取呼吸法を一生懸命にやっているのをご覧になっているときは、いつもにこにこされ、逆にそんなに力をいれなくてもいいと云われて、内弟子や先輩を諸手取呼吸法で軽々と投げておられた。
しかし、力を入れない、つかわなくてもいいということは、いつも云われている力一杯にやれといわれていることと矛盾するので、我々稽古人は戸惑ったものである。そしてある先輩などは、大先生がやられたように、大先生の真似をして力を抜いて、受けと共に格好よく諸手取呼吸法をやっていると、それを大先生が見つけられ、力一杯やれと、また、道場中が大目玉を食らってしまった。我々から見ると、先輩は大先生の真似をほんとうに上手くやっていたし、また、受けの受け身も上手いモノだったので感心していたところだった。
今考えれば、その先輩が大先生の真似をするには、やはり40年、50年早すぎた。やはりやるべきことをしっかりとやらなければならない。
諸手取呼吸法については、これまで書いてきたように、相手が掴んでいる箇所と異質の箇所、体のすべての主要部位を最大限に使う事、そして最終的には腰腹からの力をつかうことが大事であり、それをこの諸手取呼吸法で学ぶのだと書いた。
今は、諸手取呼吸法は体(魄)を最大限につかい、魄の限界までつかう稽古法であると思う。
この魄の力の限界を打ち破るのは容易ではない。これまでの修業と異質な修業になるからである。魄の稽古を続けることはそう難しいことではないが、その線上から別の次元の線に移るのは至難である。
それでは諸手取呼吸法で魄の限界に来たら、この限界を突破するにはどうすればいいのかということになる。私の場合でいうと、呼吸、息づかいである。
これまで培ってきた力と体を、今度は息を主につかってやるのである。イクムスビの息づかいであり、そしてその後は阿吽の呼吸である。
まず、イーと吐いて相手と一体化し、クーで吸って(引いて)相手を導き、ムーで吐いて収めるのである。このイクムスビの息づかいが身に着き、そして力がついて来れば、阿吽の呼吸で一気に収める事ができるようになる。有川先生は、合気道はシンプルであるとも云われておられたのは、この事を指しておられるのだと思う。
「火と水が和合して活動する姿、火と水の相和して活動している姿、火と水の相和している姿を、天の浮橋というが、火水というのは体であり、イキとは用であります」(武産合気 P.108)といわれるわけだから、天の浮橋に』立った体と心を支点とし、イキを用いて諸手取呼吸法をつかわなければならない事になる。
しかし、ここまではまだまだ魄の稽古であり、魄の限界がある。それ故、この魄の壁を突破しなければならない。
魄の限界・壁とは、言葉を変えて言えば、己の魄の力の限界ということになるだろう。
ということは、次に己以外の力をお借りしなければならないことになるわけである。
それは、宇宙の力である。宇宙の営み、宇宙の法則に則った稽古をすることであると考える。しかし、これがまた難題である。
だが有難いことに、それをわれわれが考え、見つける必要は無い。大先生がそれをわれわれに教えておられるのである。我々はただそれに気が付かないだけなのである。
それでは、それを大先生はどのようにお教えくださっているかというと、「天の浮橋と申すのは、火と水であります。火と水の相交流すること、むすぶこと、むすびあうこと、つまり一元が二元を出し、その二元がむすぶことであります。対照力によって各々二元の働きが出来る。対照力の起こりである。しかし二元の根源は一つであり、火と水も元は一つ。対照力によって天の浮橋が現れ、対照力により建国精神は起きた」(武産合気 P.108)とあります。
これを諸手取呼吸法に合わせて解釈してみる。