【第62回】 引力の練磨

合気道は一朝一夕に分かるものでも、出来るものでもない。いわば一生もの、否、一生やっても完全には分からないだろう。何故ならば、合気道の完全な形、完全に確立した理論等が残っていないし、その完全を探求しなければならないところであるが、人間には限られた寿命しかないので、それらを完全化することは不可能と思われるからである。われわれに出来ることは、完全を目指して修練するだけである。

合気道は形(型)を繰り返しながら、技を磨いていくものだが、合気道の真の目標は、合気道の形を覚えることでも、技を使いこなすことでもない、と言われている。開祖は、合気道には形がないとも言われていた。

それでは、形を目標にしないならば、合気道の稽古の目標をどこに置けばよいのかということになる。確かに合気道は、体操やフィギアスケートなどのように、形や技が優れていれば上手で、いい点数を得られるということにはならない。演武会で派手な演武をしたからといって、上手いとはかぎらない。勿論、下手ではいい演武もできないし、技を使いこなせないし、形もできないであろう。

合気道の上手下手を見る一つの基準に、「引力」の強さがある。上手な人の手に触れるとくっ付いてしまい、なかなか離れ難くなる。逆に下手がやるとくっ付かずにはじいてしまう。また、上手の人に対すると、離れていても気持ちが引き付けられて、動きが抑えられてしまう。開祖や上手の師範の傍にいたときなどは、そんな感じを受けたものだ。多分これを合気道では、「引力」というのだろう。

開祖は晩年、それまでの合気道を武産合気と言われた。そして武産(たけむす)とは引力の練磨であると言われた。ということは、合気道の上手下手の一つの基準は、「引力」ということになる。つまり、合気道(武産合気)の修練をすることによって「引力」がつかなければならないし、「引力」がつかない稽古は間違いであるということになる。

人には本能として引力があるという。この本能である引力が、大地球の引力、万有引力などの宇宙の精妙と一つになるように稽古していけば、この本能たる「引力」は増大し、真の力を得、上手になれるだろう。「引力」の練磨を心掛けよう。