【第618回】  水の位

相対での形稽古で、相手がこちらの手や胸などの体を掴んだり、正面打ちや横面打ちで打ってくる手を結んでしまう、つまり引っ付けてしまわなければならない。従って、相手と接する瞬間が大事、初めが肝心だと書いてきた。
攻撃してくる相手と結ぶためには、所謂、天の浮橋に立ち、イクムスビの息づかいのイーでくっつけ、1+1=1とし、相手と一体化するのである。

しかしながらよく考えてみると、相対の稽古において、相手と接したところが初めではないはずである。初めは己と相手が対峙したところであろう。勿論、厳密に見れば、道場に入ったときとか、初めは対峙のまだ先にあるかも知れないが、今回ここでは、己と相手が対峙したところを初めとする。

それでは、己と相手が対峙したとき、何をどうすればいいのかということになる。有難いことに、開祖はこの件に関しても下記のような教えを残して下さっているから、それを研究させて頂くことにする。
「(昔は、兵法を畳の上で道により、)天地の息をもって相手の距離を“水の位”とし、それを彼我の体的霊的の距離のなかにおいて相対す。
相手火をもってきたら、水をもって対す。相手を打ちこませると誘ったときは、水が終始自分の肉身を囲んで水とともに動くのである。すなわち相手が打ってくれば、水とともに開くから打ち込まれない。(略)この心理に合した呼吸で行わなければならない。」(「合気神髄) P.98)

ここから分かることは、相手と対峙するときは水の位になければならないということだろう。この水の位には相手との体的霊的の距離があるという。その距離は相手との肉体的と霊的な力の関係で決まるということだろう。要は、相手が強力ならば、体的霊的の距離を大きく取るし、そうでなければ小さく取るということになるだろう。
“水の位“の「水」は息陰陽水火の結びや天地水火の交流の「水」であり、「位」とは、ある場所を占めるという意味だろう。

上述の「水の位」の前半は具体的にどういうことなのか分かりづらいが、他の箇所に、その解釈になりそうな開祖の下記のような教えがあるので、それと比較すれば分かるだろう。
「かく和したる相手に対してはいつも、楽天に自分の心を宇宙の大精神に習い、心魂を鎮め、落ち着き雄大なる気持ちの中に、相手あるいは物をみな包み、道に住するのである。かく対すれば相手の動作を明らかに見抜くことができる。天地より受けたるところの道に相手を導くことが肝要である。」(合気神髄 P.170)
つまり、「水の位」とは、「楽天に自分の心を宇宙の大精神に習い、心魂を鎮め、落ち着き雄大なる気持ちの中に、相手あるいは物をみな包み、道に住する」ということになるのだろう。

教えの前半は、「相手と対峙するときは、「水の位」にならなければならないということだが、この水には霊的な水と体的な水があるようである。
霊的な水とは、和魂(にぎみたま)であり、十字交流する天下水地の水であり、天地の息であろう。尚、水は和魂で、その対照霊が火の荒霊である。

霊的な水も難しいが、体的な水が難しいので、ここでは体的な水を研究してみたいと思う。
体的な水とは、目には見えないが、人の体で感じられるモノであると考える。
この見えないが感じるモノが水とは、風呂やプールや海に入ったときの水のように、身を囲み、身に密着する空気のようなモノだが、密度があると考える。
密度は誰でも水の中では感じるものだが、空気は通常その密度は感じないものだ。しかし、風呂に入ったり、プールに入って上がる時、水から上げた手や体は、水の中と違った重い密度を感じるはずである。

空気を「水の位」にすることはできると考える。例えば、開祖の技を拝見していると、相手に触れずに、つまり受けに触れる前に、受けは押つぶされるように倒れたのは、この「水の位」の密度濃い「水」だったと考える。
また、開祖もそうだったが、有川定輝先生は、道場で稽古中、全員の動きや思いを見ておられたと言っておられた。確かに間違ってやっている稽古人のところにはすぐ行って注意されたり、直しておられたので、どうして道場の隅々までを見ておられたのか不思議だった。
お蔭様でその疑問が溶けた。到底それは目だけで見えるモノではない。「水の位」の密度の濃い「水」の流れや響きで見ておられたり、感じ取られたりしたものと考えるのである。

更に、世界的に有名な武術家ブルースリーは、「水のようになれ」と言っていたという。恐らく、この「水の位」に身を置けということだろう。
確かに、太刀捌きは、素手であっても剣を持っても、「水の位」に身を置いたつもりにならないと上手くできない。

今回の結びは、相手と対峙したら、相手と接する前に、まずは「水の位」で相対する事を書いた。しかし、これは開祖の先述の教えの半分で、後半分が残ってしまった。後半の「相手火をもってきたら、水をもって対す。相手を打ちこませると誘ったとき・・・」は、文量が多くなるので次回にする。後半の「水」は、前半の「水」とは違うようである。