【第611回】  次の次元の合気の道へ

合気道の稽古を長年続けて行くと、己の力の限界を感じ、どうすればいいのか悩み、迷うはずである。己よりも腕力や体力のある相手には、技が効かない事が身に沁み、更に、己より腕力や体力のない相手でも、多少力を入れて頑張られると、思うように動くことができないことがわかり、愕然とすることになる。

そこでもっと力をつけなければならないと、木刀や鍛錬棒を振ったり、腕立てや腹筋運動などで筋肉をつけることになる。しかし、確かに、当初は筋肉が付き、力が着いた分、技を掛けやすくなるが、やがて体力や腕力の限界を再認識することになるものである。

ここまでは、稽古を一生懸命にやってきた稽古人の誰もが体験することであるはずだ。そしてここからの稽古をどうすればいいのかに悩み、悩んでいるはずである。少なくとも私自身がそのような経験をしたし、その目で他の稽古人を見ていて良くわかる。

多くの稽古人は、これまでと同じような稽古を続けて行けば、これまでと同じように、上手くなっていくだろうと期待しながら稽古をしているように見える。しかし、現実では上達は儘ならないどころか、人によっては膝や腰など体を痛めてしまうことになるわけである。
この時点から、多くの古参の稽古人が引退し始めることになるわけである。

体力や腕力の限界を再認識することになったら、これまでとは違う稽古をしなければならないと考える。それは何かというと、開祖が言われている合気道の修業に入ることである。つまり、これまではその準備であり、次の次元の真の合気の道への入り口の前に立ったということである。例えば、一生懸命にやって来た形稽古は、「合気道の技の形は体の節々をときほぐすための準備です」(「武産合気」P.37)と言われるのである。これまでの稽古で培った腕力、体力の魄を土台にし、これから魂が上になる稽古に入っていくということであると考える。従って、体力、腕力は強ければ強いほどいいわけで、若い時、初心者の内に出来るだけ己の体を鍛えるのがいいということになる。力のあること、力をつかうことを恥じる必要はない。
また、体力や腕力の限界を感じるということは、己の出来る極限まで稽古をしたということになるわけで、よくやったと己を褒めてやればいい。何故なら、一生懸命に稽古をやらなければ、技の稽古で体力や腕力の限界を感じことなどないはずだからである。

しかし、ここから真の合気道の修業、開祖が目指しておられた合気道の修業に入らなければならないわけである。例えば、真の合気道(武道)とはこれまでと違い、「真の武道は相手を殲滅するだけではなく、その相対するところの精神を、相手自ら喜んで無くさしめるようにしなければならぬ和合のためにするのが真の武道、すなわち合気道である(合気神髄 P.173)」。
次の次元の合気の道へ入っていくために、開祖はどのように稽古せよと言われているのか、それは次回とする。