【第504回】  魂の緒

合気道は無限の力を体得することであり、有限の魄の力から脱し、無限の力である魂の力を修業しなければならない、と教えられている。合気道は魂の学びなのである。

しかし、どうしても有限である魄に頼ったまま稽古をしてしまい、そこから抜け出せないのが現状であろう。

魄の稽古は、程度の差はあっても誰にでもできるものだ。体力、腕力、また気力で技をかける稽古であるが、これは意識してつかえるし、目に見え、目に見えるものから出る力をつかうからである。

これに対して、「魂」や「魂の力」は見えないし、感じられないし、意識できないから難しい。

合気道を修業し、無限の力を体得したいなら、開祖のいわれることを信じ、理解し、また技を錬磨し、試行錯誤を繰り返しながら修業していくしかないだろう。開祖は、この見えない己の「魂」は心と体(心身)によって科学されて出てくる、といわれている。だから、「魂」は、己の心と体を法に則ってつかえば出てくることになる。

これまで、「魂」は宇宙の意思・心・精神であり、宇宙楽園建設に向かう万有万神、万有万物の生成化育を進め、万有の成長をまもる愛であろう、といってきた。さらに、人は気ままな心と真の心・本心を有しており、その二つの心の葛藤で悩むことになるが、この真の心・本心こそ宇宙の意思・心・精神である魂であろう、と考える。

そこで、この宇宙の魂と己の魂を科学してみることにする。まず、己の魂と宇宙の魂は異なり、隔たりがあるわけで、この二つの魂を結びつける何かがなければならないはずである。

これを、開祖は「魂の緒」といわれているのではないかと考える。魂の緒(玉の緒、霊の緒も同じ)は魂の緒の糸筋(心の糸・たましい)ともいわれているので、宇宙と己の魂を結んでいる細い糸の筋のことであろう。しかし、この魂の緒、魂の緒の糸筋が、己の魂と結ばれてなかったり、ところどころ切れていたり、さびついていたりすれば、宇宙の魂、宇宙の魂の力が己の魂に集まってこないことになる。

己の魂の緒が切れていたり、己の魂が遊びに行っているのを、開祖は遊魂といわれ、この遊離の魂を自己の丹田に収めることを、鎮魂といわれている。そして、鎮魂のためには魂の緒の糸筋を浄めなければならない、といわれるのである。

稽古に入る前に遊魂を丹田に収めるべく鎮魂しなければ、魂の緒は切れっぱなしになり、魂の稽古はできないことになる。開祖は「身勝手な心、行動は罪をつくる門戸である。至大至祖の体内の魂の緒によって生きていることを忘れてはならない」と、魂の緒の切れた状態での稽古を戒められている。

魂の緒で宇宙と己はつながっているので、魂の緒によって宇宙と己は響き合い、結び合うことになる。それ故、開祖は「己の心(本心・魂)のひびきを、五音、五感、五臓、五体の順序に自己の魂の緒の動きを、ことごとく天地に響かせ、つらぬくようにしなければならない」(「合気真髄」P.84)といわれているのである。

従って、魂の緒が切れたり乱れたりしないよう、また、宇宙の生成化育を妨げないように、己の魂の緒を響かせなければならないことになる。そのためには、「天と地との真中に立って大神様のみ心にむすぶ信念むすびによって進まなければなりません。そうしませんと天と地との緒結びは出来ないのです。天之浮橋に立つ時、魂に宇宙の妙精を悉く吸収するのです。天之御中主神となって立つのです。」というのである。

魂の緒は大切であるから、磨いていかなければならない。磨くところは、己の肉体である。「我々に与えられている肉体は、造化器官であると同時に祭場であり、魂の緒をみがく家であり、器官である」といわれているからである。

ここで、科学しながら魂の緒を磨いていくのである。また、肉体だけでなく、心、呼吸も科学しながら、稽古していかなければならないのである。