【第477回】  八力と対極

大先生はよく、合気道は引力の養成である、といわれていた。確かに当時、師範や高段者である先輩方の手をつかんだ時にも、くっついて、離れにくくなってしまうのである。

半世紀ほど稽古をしてきたが、自分にも受けの相手を多少くっつける力がついてきたようである。そのため、技の錬磨の稽古も一段と楽しくなり、合気道は確かに引力の養成法である、と確信する。

初心者の内は、相手をくっつけることが難しいだけでなく、相手がせっかく持ってくれている手を、わざわざ自ら離してしまうことになる。手ほどきといわれるような護身術にはよいかもしれないが、それでは合気道にはならない。

もちろん初心者でも誰でも、相手をくっつける力である引力を持ちたいだろうが、それでも相手の手などを弾いたり、離してしまうのである。望んでも、望み通りにならないのには、原因があるはずである。

合気道の技は宇宙の創造と営みを形にしたものであるが、それを合気道では一霊四魂三元八力という。八力は、この一霊四魂三元八力の八力である。開祖はこの八力を具体的には説明されてないが、明治時代の神道家の本田親徳は、八力とは「動、静、引、弛、凝、解、分、合の八つの力である」といっている。つまり、これらの力は動と静、引と弛、凝と解、分と合と、対照的であり、対極的なのである。

引力は、対照や対極で発生することになる。世の中や宇宙には、対照や対極が無数にあるはずである。八力の八は俗にいうところの沢山と解釈すべきだろう。
また、そのうち合気道の引力に関係すると思われる対照や対極は、動と静、引と弛、凝と解、分と合の他、強と弱、速と遅、剛と柔、硬と軟、厳と優(厳しさと優しさ)等々があるだろう。

引力ができたり、引力を養成したりするには、対照や対極のバランスが取れて、そして、双方の幅を広げることだと考える。例えば、強と弱であれば、強い力をつけて、その力で技をつかうと同時に、力をより使わないよう、より弱い力でも技が使えるようにするわけである。強い力をつかうことも、弱い力をつかうこともできれば、強い力にも弱い力が同居して、そこに引力が発生するのだと考える。

つまり、初心者の技に引力がないとか、少ないのは、一方的に強いだけの力、あるいは、弱いだけの力しかつかえないからだろう。

従って、引力をつけたいと思うなら、強い力で技をかけているものは、それと対極の力である弱い力とか、異質の力をつかうようにすればよいだろう。そして、強い力と弱い力が表裏一体となればよいのである。そして更に強い力、弱い力を養成すればいい。

他の八力も、対極を意識して養成していけばよいだろう。それによって、引力が出てくるはずである。

八力が最終的にどうなるのか知りたい時には、開祖を思い浮かべればよい。開祖の書を観、写真を観、道歌を味わうのもよい。

超人的な力も引力も持たれていた開祖は、どんな力持ちも制しただけでなく、武道とは直接関係がない学者、宗教家、芸能人、芸術家、政治家、俳優、舞踏家、ダンサーなどなどをも引きつけるような、膨大な引力を持っておられたのである。開祖ほど強い人を引きつける引力も持たれた人はなかっただろうし、これからも出ないのではないかと思う。

対極があるから引力が発生し、人を引き付けるのは、合気道だけにあるのではない。例えば、絵画の世界でもそれが当てはまるようだ。先日、大阪万博の太陽の塔をつくった岡本太郎のドキュメンタリーをテレビで見ていた。彼の作品のテーマは、過去と未来であり、近代文明の寵児である機械や文明が人間を蝕むという光と影、また、色は黒と赤の対照色が基準、などなどあるが、岡本太郎は自ら、自分の作品を「対極的」であるといっている。対極的であるから、人を魅了するといっているのである。

映画でも小説でも、悪いやつがいるから面白くなり、人を引き付けるわけだし、甘いお汁粉に塩がちょっと入るから美味しくなったり、苦い抹茶に甘いお菓子が合うなど、対極が同居することによって魅力がでてくる、つまり、人を引き付ける引力が発生するのである。

引力が養成されると、技が効くようになるだけではなく、開祖のように、道場外の人たちまで引き付ける。そういう引力が養成されるように、八力修得の稽古をしていかなければならない。