【第434回】 合気道は形はない

「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である」といわれている。気形とは、我々のレベルでは、正面打ち一教、片手取り四方投げ等と考えればよいだろう。鍛錬法とは、呼吸力を養成する稽古である。

しかしながら、開祖は「合気道は形はない。すべて形にとらわれてはいけない。それは微妙な働きができなくなるからである」ともいわれている。この「合気道は形はない」という言葉があるためかどうかわからないが、合気道の技の稽古は非常に自由であるといえよう。他の居合道、杖道、空手などの武道や日本舞踊などでは、形に大変厳しいようだ。

しかし、この「合気道は形はない」は、形、気形の稽古は自由に、自分勝手にやってもよい、ということではないと考える。

まず、開祖は「合気道は形はなく、すべて魂の学びである」といわれる。つまり、合気道は魂の稽古にならなければならないのである。しかし、はじめから目に見えない魂の稽古などできないので、目に見える魄の稽古である形の稽古をしなければならないのである。そして、「魂が魄をつかうよう、魂が魄の上にならなければならない」のである。

形にとどまっていては、だめなのである。その先に進まなければならないのである。開祖は「合気道は形のない世界で和合しなければだめです。形を出してからでは遅いのです。吐く息の中に自分自身がいるのです」ともいわれている。

合気道の理想は、技をかける前に、相手と和合しなければならないのである。これが、合気道は形ではない、形がないということだろう。

合気道は技の錬磨を通して精進していく、ともいわれている。そして、その錬磨する技は宇宙の営みを形にしたものである、といわれる。合気道の技には、法則がある。例えば、結ばなければならず、陰陽の交流と変化、十字による円とその円の巡り合わせ、天地の呼吸に合う息づかいとイクムスビの息遣い、中心が末端を動かす、中心が動いて末端が動く、すべては生成化育のために働いている愛である、等などである。

さらに、技の錬磨の技は気形の稽古を通してやるわけだから、形には法則がなくてはならないだろう。従って、形には法則があり、やるべきことはやらなければならないし、やってはならないことは避けなければならないことになろう。従って、技の稽古、気形の稽古では、形はある、といえよう。

ただ、この形に留まっていてはいけないのであるが、形がしっかり身につかなければ、形がない合気道には進めないのである。形がない合気道になるためには、形をしっかり身につけなければならない。これも、合気道のパラドックスということになるだろう。