【第403回】 天之浮橋の立つ

合気道は、相対稽古で技をかけ合い、受けを取り合いながら、技を練り合って、上達していく武道である。初心者の段階では、技の形もよく分らないし、合気の体も力も十分できておらず、まだ体と力をうまく使えない。だから、多少遠慮しながら技をかけたり、受けも素直に取るので、お互いに頑張りあって争いになることはほとんどないだろう。

しかし、基本の技の形を覚え、体ができて力もついてくる段階になり、同じレベルの相手と稽古をするようになると、時としてぶつかり合い、そして、争いになることがあるものだ。

外から見てもわかるような争いになることは、最近はほとんどないようだが、外から見えず、本人達だけにわかる小さな争いは、頻繁に起こっているのではないだろうか。

小さな争いとは、例えば力がぶつかったり、ぶつかった個所を無理に押したり上げたりして、受けの相手が力や、または気持ちで反抗することである。

しかし、相対稽古での稽古相手とは、敵ではないし、倒す対象でもない。稽古相手は、自分の技の上達を手伝ってくれたり、自分がかけた技の結果を示し、評価してくれる人なのである。自分がかけた技がうまければ、相手は気持ちよく倒れてくれるが、まずければ倒れてくれないだろうし、不満を持つはずである。

相手ががんばって倒れないのは、ほとんどの場合、技をかける側に原因があるようである。では、相対稽古の相手がこちらのかけた技に満足して倒れてくれるためには、どうすればよいか、ということになる。

開祖は、まずは天之浮橋に立たなければよい仕事はできない、といわれている。まずは、天之浮橋に立つことである。

天之浮橋に立つとは、「自分の想念を天に偏せず、地に執(つ)かず、天と地との真中に立つ」ことであるという。相手を倒してやろうと思ったり、足を踏ん張ったり、手に力を込めたりせず、心(魂)と体(魄)がイザナギとイザナミ二尊のように、縦と横のバランスの取れた十字の姿で立つ事である。

天之御中主神になって、「魂に宇宙の妙精を悉く吸収する」。「大神様に自己を無にして、自分は鎮魂帰神の行いにかなうように努める」のである。

また、「自分がスを出し、二元の交流をして、自分にすべての技を思う通りに出してゆくことである。体と精神と共に、技を生み出してゆく。その技の中に魂のひれぶりがあればよい」といわれている。

天之御中主神の心とは、上下四方、古今東西、宇宙のすみずみまでに及ぶ偉大なる「愛」であるから、天之浮橋に立てば、愛の気持ちになるはずである。相手をやっつけよう、倒そうなどと、相手の嫌がることはしないようになるのではないだろうか。

道場に入ったならもちろんのこと、道場に着くまでに、世間のことを忘れ、稽古に集中し、天之浮橋に立つべく、精神を集中していかなければならない。道場に入っても、ぺちゃくちゃ俗世のことを話しているようでは、天之浮橋に立つ事などできないから、真の稽古にはならず、技の習得はできないことになる。

天之浮橋に立って、相手に向かい、言霊(宇宙のひびき)の「雄たけび」によって業(技)を発兆させる。言霊とは「業(技)の発兆を導く血潮」と開祖はいわれている。天之浮橋に立てば、血肉(血潮)が宇宙のひびき(言霊)で踊り、技が出てくるという。血肉が踊るというのは実感できるから、これを言霊のひびきに結びつけることが必要なようである。

技をかける際だけでなく、相手に対した時には、天之浮橋に立っていなければならない。

例えば、まず相手に触れた瞬間に、相手と結び、相手をくっつけてしまうためには、少しでも押したり引いたりしてはならない。押すでも引くでもない、「天之浮橋に立」たなければ、できないのである。

二教裏で手首をかえす場合などにも、極めようとして気持ちと体を力んでかけても、あまり効かないものである。相手の心と体の全体をふわっと包み込むよう、天之浮橋に立ってかけると、極める前から相手は気持ち良さそうに自らかかってくれるものだ。ただし、自分より相当力がある人には、そううまくいかないものである。

相対稽古で相手と争わず、お互いが納得できる稽古をするためには、まずは天之浮橋に立つ稽古をしていかなければならないだろう。