【第352回】 主の大精神は至真、至善、至美・・・・・

合気道を稽古している者は、少しでも技が上達するように努力している。絵を描く人は自分の絵が少しでもよくなるように、音楽家は自分の音楽(作曲、楽器、歌)が少しでも上手になるように、一生懸命にやっている。誰もが成長して変わりたいと、一生懸命に生きている。これは地球上、どこの国や地域でも同じである。

世界的に評価されている、例えば、芸術作品(絵画、書、彫刻など)は、時代が変わっても、また、国や地域にも関係なく、これはすばらしいと評価される。国が違っているからとか、共産主義とか独裁政権下の国だからといって、評価が逆転することはない。たとえ一時、評価されなくても、時間と共にその国でも再評価されるようになるのは、歴史の多くが示すとおりである。

科学の世界も、真理を求めて飽くなき探求を続けている。極限的なものを見つけても、常にその先の追求が始まり、真理の探究にも際限がない。

我々人類は、何かに向かって動いているようだ。また、よいものはよい、正しいものは正しい、美しいものは美しい、と評価される訳だから、人や国・地域や時代を超越した、何かそれを判断する基があるはずである。

テレビ、新聞、雑誌などなど見ていると、感動するものがあるかと思えば、馬鹿々々しくて腹が立つようなものもある。しかし、これはこちらのことで、他の人々は逆かも知れない。いろいろな考えの人がいるのだから、私が感動したり、関心を持てるものだけをやれ、とか書け、ということはできないだろう。テレビなら視聴率、新聞などの出版物なら発行部数がものをいうのだろう。よい悪いの究極の判断基準を、世間はまだ見つけていないようだ。

合気道では、万有万物は宇宙を創られた一元の大神様(主)につながり、そしてこの主は宇宙楽園を完成すべく、万有万物を生成化育していると教えられている。そして、生成化育の目標と到達点は、至粋、至純、至聖、至美、至真、至善、至大愛である。つまり、粋の極、純の極、聖の極、美の極・・・に至る、ということである。

開祖は、これを「無色無形の主の大精神は、無色透明にして至粋、至純、至聖、至美、至真、至善、至大愛」(「合気真髄」)と言われている。 この至粋、至純、至聖、至美、至真、至善、至大愛というものは、無色透明であるが、絶対的なものである。つまり、時間や空間(宇宙)によって変わることはなく、通常の部分的、条件付きのものではない。

従って、至粋、至純、至聖、至美、至真、至善、至大愛の宇宙が創造されれば、絶対的宇宙楽園ができることになる。また、至粋、至純、至聖、至美、至真、至善、至大愛は、絶対的な基準になる訳だから、万有万物の価値判断の基準になるはずであると考える。

芸術作品はこの至美に向かって生成化育しており、その至美に近づけば近づくほど、美しいという評価をされるものと考える。人には、宇宙楽園創造のためのすべて(粋、純、聖、美、真、善、大愛)が備わっているのだろう。そして、各人はそれを極限に至らしめようと生き、生成化育を繰り返しているように思える。

思うに、その流れに乗って極限に少しでも近づければ、人は満足し、そうでなければ、自分がやっていること、生まれてきたこと、生きてきたことに満足できない、ということになるのではないだろうか。

合気道の稽古の目指すところも、宇宙の主の大精神に則った至粋、至純、至聖、至美、至真、至善、至大愛である。先ずは、合気道家がみずから挑戦し、そして、それを合気道以外の世界に伝えていかなければならない。それが、大先生の意志であるはずである。