【第345回】 潮の干満と拍子

合気道は、技を練磨しながら精進する武道である。しかし、技の練磨と一口にいっても、どのように練磨すればよいのか、明確ではないのではないか。技の練磨のために技の形稽古を、繰り返し稽古しているわけであるが、それだけを無暗に続けても、成果が上がらないと思う。具体的な目標を持って、そのためのやり方を工夫しながら練磨すべきであろう。

そのひとつに、「拍子」があるだろう。「拍子」とは、技をつかう際の動きの流れ,調子、具合、勢いである。技のはじめから収めるまでの「拍子」である。ダンスではないのだから、ワルツやタンゴの拍子ではない。

合気道を修行している者は、技をつかう際に、出来る出来ないは別として、よい「拍子」でやろうとしているはずだし、無意識ではなんとか理想的な「拍子」でやりたいと思っているはずである。それが証拠に、誰でも人の技の良し悪しを判断するが、その判断基準の一つは「拍子」であるはずだ。

合気道家は、どこかで理想の「拍子」を求めているはずである。そしてその理想の「拍子」に近いものが上手であるということになり、だれでもそれに近づこうとしている思う。技の途中で居ついてしまったり、動きがスムースでないのは、まずいと誰でも感じるだろう。

では、合気道の技の稽古において、理想の「拍子」とはなにか、を考えてみたいと思う。結論から言えば、それは潮の干満の拍子であろうと考える。

まず、開祖は「合気は、地の呼吸と天の呼吸とを頂いてこのイキによって(略)技を生み出してゆく」といわれている。天の呼吸は日月の呼吸、地の呼吸が潮の干満である。縦と横の十字の合気道である。

満ちる潮の呼吸を赤玉、すなわち塩盈珠(しおみつたま)、干る潮の呼吸を白玉、すなわち塩涸珠(しおひるたま)といわれ、開祖は、これらが大事である、と再三いわれていた。 開祖の技、特に杖や剣の拍子を見ると、潮の干満というよりは、海岸に打ち寄せては引く波の拍子のように思える。潮の干満の拍子というのは、我々にはまだ実感するのは難しいし、技への活用も難しいので、波の打ち寄せ引き返しの拍子と考えてみることにする。

この潮の干満の呼吸の拍子に合わせて、技をかけていく。寄せては返し、寄せては返しを繰り返し、その拍子に技を入れて使うのである。拍子は息で調整する。そうすれば、地の呼吸としての波にイメージが湧き、音も聞こえてくるようになるはずだ。

開祖は「合気道は音感のひびきの中に生れて来る。つまり音のひびきによって技は湧出して来る」ともいわれている。音のひびきが出てくれば、さらに拍子のよい技が出てくるのではないだろうか。