【第336回】 心の目

以前なら、相対稽古の相手に向かい合うと、相手を大きいとか腕が太いとか、強そうだとか弱そうだとか、などと見ていた。つまり、以前には相手は対戦相手であり、負けないようにすることを考えて見ていたし、相手を表面的に、つまり物質的に見ていたのである。もちろん、これは合気道の精神に外れているわけだが、はじめは誰でも通る道であろう。

物事を表面的に見るということは、見えるモノを見ることである。そうすると、人は見栄えのするようなモノをつくることになる。これが、物質文明であろう。モノは大事であるが、あまり見えるモノに偏ってしまうとうまくない。ここに、今の人類と世の中の問題があるように思える。

表面的に見られ、評価されるような世の中では、容姿を重視し、野菜や果物まで少しでも見栄えがいいようにする。そして、大事なものを失っていっている。

モノも大事であり、見栄えがよくてもかまわないが、そろそろ見えない内面、容姿の後ろにある心を大事にするような世になってほしいし、そうしていかなければならないだろう。

特に、我々は合気道を修行しているわけだから、見えないものを観る修練をしていくべきだろう。武道の名人や達人といわれた人たちは、凡人には見えないものが観えたようだし、観ていたようだ。

見えないものを観るためには、努力が必要だろう。やるべきことを知り、運がよければ、見えないものも観えるはずである。やるべきことを見つけ、それをこつこつとやっていくことが不可欠であろう。

まず、見えないものを観たければ、見えないものでも観えるということを信じなければならない。開祖が弟子に、間もなくこれこれの恰好をしたお客が訪ねてくると言われると、その通りだったとか、風呂に入ろうとされた開祖に突如、「誰か湯に手を入れたな」と怒られて、おそるおそる弟子が湯加減を見るために手を入れたと白状したなど、見えるはずもないものが観えたという言い伝えが残っている。

見えないものが観えるのは、開祖だけではない。宮本武蔵も表面的なものに惑わされず、心の目「観の目」で観るようにといっている。骨董商の目も、骨董品の良し悪しを観るのに、内面的な目で見えないものを観ているはずである。

モノを表面的ではなく、その内面や心を観る初歩の訓練のひとつとして、「能面」を観るのがよいと考える。「能面」を表面的な姿形でみると、ただの奇妙なお面であるが、意識を集中して「観の目」で観ると、若い女性の小面(こおもて)などは本当に美しく、惚れ惚れするような女性の顔になる。内面の本当の姿と心が、観えてくるのであろう。しかし、意識を集中して能面をじっと見ていれば、誰にでもその内面と心が観えるという保証はできない。心の目、「観の目」で内面の姿が観えるように訓練するしかないだろう。

では、「観の目」とはどんな目なのかを知らなければならないだろう。私の拙い体験からしか言えないわけだが、私も以前は「能面」の内面や心が観えず、そのすばらしさは分からなかった。それが変わったのは、お日様が直に見られるようになってからである。輝くお日様を直に見ても、お日様のぎらぎらする輝きがなくなり、やわらかに光る円い輪郭の中のお日様が見え、眩しくなくいつまでも見ている事ができるのである。お日様と結んだなと思えるし、お日様が見守ってくれているなと実感する。

もちろん、お日様を見つめることは、下手をすれば目を痛めるといわれるので、誰にでもお勧めはしない。もし挑戦する場合は、自分の責任でやってほしい。なお、私がお日様を見つめるようになったのは、開祖が「わしはお日様を見ても眩しくないんじゃ」と言われたのを聞いたからである。

この「お日様をみる目」で、「能面」を観、お能、絵画や骨とう品を観ていくのだが、最近は人を観るのが楽しくなった。人の内面、心を観るのである。容姿や服装よりも、その人の心の状態や動きなどに興味が持てる。楽しそうに歩いている親子や若いカップルを観ると、こちらもうれしくなるし、がんばりなさいと心で応援してしまう。

人は多種多様で一人として同じ人はいない。人の気持ちは時と場合によって変わるので、さらに複雑微妙である。

また言葉がなくとも、人の気持がだんだんと読めるようになるようだ。あの人は店に入るだろうとか、こちらにくるようだとか、笑い顔をつくってはいるが何か悩んでいる、等などである。テレビを見ていても、若いタレントが笑顔の顔を見せているが、不安や希望の葛藤で大変であろうという気持ちの方も観えてくる。

道場の相対稽古の相手も、これまでの表面的、物質科学の魄の稽古に留まらず、これからは心の目を開いて、内面的、精神科学の魂の稽古に変わっていかなければならないだろう。