【第33回】 上から下は見えるが、下から上は見えにくい

かって開祖をはじめ当時の本部道場の各師範とお話をさせて頂く機会があったものの、お話を聞くだけでこちらからは何も言えなかったものだ。お話を理解しようとするのが精一杯で、何を質問すればよいかも分からなかった。
その当時は、大先生(開祖)が話されるときには、師範達も一言も言葉を発することがなかったと思う。思い出しても、とても何か言える雰囲気ではなかった。

人には格があると言われるが、まさしくその格であろう。人格の次元が違うのである。話をしてもかみ合わないし、こちらが話すことなど全部見透かされているのだ。

今、初心者の言う事を聞くと非常によく分かるし、やっていることもこちらには見えている。かって自分もこんな考えをしたし、こんな稽古もしていたな、とか、この人は今この時点にいるのだなということが分かる。

師範に勧められた本を買ったことがあるが、勉強にはなると思いながらも、当時は読んでもちんぷんかんぷんでさっぱり分からなかった。同じ本を何年か越しで、何度も挑戦していたが、不思議なことに突然分かるようになった。時を同じくする頃、合気道の技、動き、考え方も変ってきていた。

物事を追求していると、次元が違う段階が複数あることがわかる。進歩、上達というのはこの段階を一つ一つ上って行く事だろう。各段階はただ高いとか低いという物理的な違いではなく、次元の違う異質の段階、別世界のように思われる。物事を達成するためにその各段階で始末をしなければならないこと(要素)があり、それがすべて達成されると上の段階にいけるようだ。

例えば、本を読むにしても、最初の段階としては、まず字を読めるようにしなければならない。少し上の段階になると、学校で習う一般的な知識、歴史、地理、理科、算数等を知らなければならない。小説にしても歴史を知らなければ分からないものもあるだろう。合気道や武道の本を読むにも、基本的な武道や武術の知識がなければ分からないだろうし、専門家として研究するなら原書も読めなくてはならないだろう。

これらを知っている人から見ると、知らない人のことはよく分かり、何を知らないのか、どこまで知っているのかがよく見えることだろう。

初心者の誤りや未熟なところは、わりと見えるものだ。だから、ここはこうした方がいいのにとか、ここはもう少しなのだから頑張って欲しいなどと応援したりする気になる。

自分より下のことはよく見えるものだが、上になると見えないものである。下から見ると、たとえその人が上だということは分かっても、どのぐらい上の次元にいるかは分からないが、上から下を見ると、それが実によく見えるのである。