【第31回】 合気道と武産合気

開祖はいろいろな古流武術を究められたが、修行の中心軸は合気柔術、合気道、武産合気であった。武田惣角から大東流合気柔術を学んだが、大正14年の黄金体体験から、「術」から「道」へと変っていき、合気柔術から合気道になっていった。そして太平洋戦争が終わり、白い幽体との剣の修行をした頃、「合気道の稽古はやめました。」(武産合気)といわれた。合気道から武産合気にいかれたのだ。つまり、武道から祈り、禊、「魄」から「魂」の修行に変ったのである。

合気道の目標は技を覚えて、敵を抑えたり、投げ飛ばしたりする事ではないといわれる。開祖は、呼吸投げで投げ合ったり、男性が女性を投げたり、腰投げをしているのを見たら、激怒したものだった。また、晩年、開祖は魂が魄の上にこなくてはならないとよく言われていた。しかし、力が入っていない稽古をしているのが目に入ると、「そんな触れたら飛ぶような稽古はするな。」と叱られた。といって、力を入れて稽古をしていると、今度は「そんなに力を入れなくともいいのに」といい、高段者に一寸ふれて潰してしまう。当時は矛盾だらけでよくわからなかったので、ただ力いっぱい、動けるだけ動いて稽古をするしかなかった。

この開祖が辿られた合気柔術から合気道、そして武産合気への変革、また、力を入れる稽古と力を使わない稽古、魄と魂など、その流れと位置づけをしっかりさせておかないと、合気道を修行する上で何がなんだか分からなくなってしまうだろう。また、自分のやりやすいことだけやって、開祖が最終目標とした武産合気に近づくことができなくなってしまうのではないか。

合気道の修行は武産合気への前段階ということになるわけだが、合気道と武産合気のやる順序を逆にしても、合気道が十分出来なければ次に進めないようにできている。魂の稽古をするには、その前に魄の稽古をし、合気の体をつくっておかなければならない。つまり、武産合気の修行に入るには、合気道をしっかり稽古しなければならないことになる。しっかりした稽古とは、合気道の技を正確にしっかりと身につけることである。特に基本技を少しでも深く科学することが大事である。なぜならば、合気道は技を通してしか分からないし、合気道の技は武産合気に入るための秘儀でもあるからである。また、正統な合気道がある程度できれば、合気道の前の合気柔術もできるはずである。もし出来ないとしたら、過去とのつながりがないことになり、先の未来にもつながらないので、道が間違っていることになるだろう。

武産合気を開祖は、「すべての営みの世を顕幽神三界を守り、和合させ、栄えさす所の役目のご奉仕であり、経倫の本義を明らかにして、その大道をみそぎ、健全なる大道へのご奉仕に献身するものである。と私は確信してやまない。」と言われた。

開祖はこうも言われている。イメージとしてはこの方が分かりやすい。「武産合気というものは、丁度、呼吸のできる中心部に、肉をつけ皮膚をつけ、枝葉をつけ、大地に根をはって、天に呼吸している1本の大木のようなものである。・・・・・武産合気は気の交流を最も尊重する。」 

武産合気はまだまだ分からないといったほうがいいが、それはその前段階の合気道がよく分かっていないからだろう。合気道がもう少しよく分かれば次の武産合気も分かってくるものと思う。
合気道の稽古をしっかりやり、しかし、そこで満足しないで、次の武産合気に進んでいきたいものである。