人は小宇宙であるとよくいわれる。開祖も「この私の中に宇宙があるのであります。すべてがあるのであります。宇宙が自分なのであります。宇宙そのものでありますから、自分もないのであります。」と言われている。
人はなぜ小さな宇宙であるのか考えてきたが、これまでその回答への取っかかりの機会がなかった。
最近、司馬遼太郎の書いた『
密教の誕生と密教美術』を読んで、その回答の取っかかりができたようなので、今回はその文章を使わせてもらいながら、「人は小宇宙」であるということへの回答に挑戦してみたいと思う。
それによれば、空海がもたらした密教には「天地の密(天地の動き、語り、思うこと)に感応して、天地(宇宙)と交流するために『三密』がある。身と口と意である。身は肉体、口は口から発せられる言語、意は心である」という。
密教では、人は小宇宙であるから三密があるので、一定の修法に従って、身に印を結び、口に真言をとなえ、心に本尊を念ずれば、天地の全存在、全言語、全活動と交流できるとしている。
また、如来(仏(ぶつ))という宇宙の普遍的な原理・法則にも、三密があるという。司馬遼太郎は、「天地そのものが如来の身といえるはずであり、風や涛(なみ)、雨や雷、川、せせらぎ、洪水といったものが、天地の口といえるかもしれない。時々刻々、年々歳々の天地の変化や不時の異変などが、天地の心や働き意とうけとってもいい。」と述べている。
この三密を、合気道で考えてみると、五体は身、技・息・気合いは口、投げたり、抑えたり、一体化する働きや天地楽園・宇宙生成化育・愛の心が意、ということになろう。
そう考えると、開祖が常々いわれていた次のようなお言葉の意味も分かるのではないだろうか。「人間は心(意)と肉体(身)と、それを結ぶ気(口)の三つが完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。」
合気道は、密教でいう三密(身口意)でいうところの体(魄)と技と心(魂)の修行を通して、宇宙との交流、宇宙との一体化を目指すものである。人は小宇宙であると信じ、修行に励み、生きていかなければならないことになる。