【第302回】 天之浮橋を技に

これまで「天之浮橋」については、『合気神髄』『武産合気』を研究したり、開祖の道文や道歌から「天之浮橋」を考察したりして、度々、論文に書いてきた。しかし、そろそろ、まだまだ分からないが分からないなりに、この「天之浮橋」を技の練磨でどのようにすればよいのかに、挑戦してみたいと思う。

なにしろ開祖は、何をするにしても先ずは「天之浮橋」に立たなければならないと言われているのである。「天之浮橋」に立たなければ、真の技もつかえないといわれているのである。

開祖以外の人が「天之浮橋」に立つとどういうことになるかは、難しいことなので、違った支点から考えてみたらどうだろう。つまり、世に名を残した方々は「天之浮橋」に立たれて仕事をされたはずだ、と考えるのである。以下、思いつくままに世に名を残した人々をあげてみると、音楽家のバッハ、モーツアルト、ベートーベン等、画家のルノアール、マチス、ゴーギャン等、絵師や画家の葛飾北斎、尾形光琳、片岡球子等、書の最高峰といわれる王義之(右図)、弘法大師、詩人・童話作家の宮沢賢治、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家の北大路魯山人等などは、この「天之浮橋」に立って仕事をしたのではないか、ということになる。「天之浮橋」に立ったから、よい仕事ができたのであろう、ということである。

「天之浮橋」に立つために、最も一般的にできることは、祈りであろう。祈ることによって、自我がなくなり、執着を去ることができるからである。開祖も、「祈る折には、自我はなく、あらゆる執着を去って光となる。」「祈りは、本当に祈りがもとになり大橋(天之浮橋)となる。」(「武産合気」と言われている。

とはいっても、忍者ならできることかも知れないが、合気道で技を掛ける際に、祈るからちょっと待ってくれといって、祈ることもできないだろう。

では、技の練磨で「天之浮橋」に立つにはどうすればよいのだろうか。開祖は「天の浮橋は、丁度魂魄の正しく整った上に立った姿です。これが十字なのです。これを霊の世界と実在の世界の両方面にも一つにならなければいけない。」と言われているから、まず、相手と対したら、次のようにしなければならないだろう。

「天之浮橋」に立つためには、この実在の世界を離れなければならない。非実在の世界、非日常の世界、ハレの世界に入らなければならない。それは、深層の世界であり、無意識の世界とも言えよう。この世界に入るためには、儀式が必要になる。開祖はお祈りをされたり、神楽舞を舞われて、その世界に入るための儀式をされたものと考える。我々凡人に出来ることは、道場への出入り、稽古前の床の間に向かっての儀式を、別世界へ入るための儀式と思って行なうことである。

「天之浮橋」に立った技の稽古が分かりやすいのは、やはり諸手取り呼吸法だと考える。しかし、誰でもすぐに「天之浮橋」の稽古ができるものではないだろう。ものには順序がある。

先ず、力一杯に持たせて、力一杯やることである。筋肉をつくり、内臓を丈夫にし、体をつくらなければならない。当然、ぶつかりあうことになるが、それは仕方ないが、それも必要な過程である。

次に、技を身につけなければならない。それまでの形稽古から、技を身に着ける技稽古にしなければならない。手は縦横十字につかい、手足は陰陽に連動してつかい、天の側の手で上げ、地の側の手で落とすなどを、身に染み込ませていくのである。技を見つけ、身に着けるためには、力を抜かなければならないので、一時、弱くなるはずである。忍耐と覚悟がいる。

技ができるようになれば、技のなかで力一杯にやればよい。この力とは、初期の腕力ではない、技の力、呼吸力である。技と呼吸力で、相当な力が出ることになる。

そして、この段階になると身体と心、魂魄のバランスが取れるようになり、息づかいで魂魄を繋げたり動かすことができるようになるので、「天之浮橋」に立つ気持がわかり、「天之浮橋」に立った稽古ができるようになるだろう。

力で抑えつけるのではなく、息を入れながら相手と接し、接した手に気持をズーンと落とすと、相手の体と気持はこちらと一体化し、相手の気持が浮き上がり、こちらの気持についてくる。気持が動くと、相手の体もそれについてくるのである。この段階になると、諸手取りの二人掛けや三人掛けができるようになるようだ。