【第266回】真空の空のむすび

合気道は争いのための武道ではなく、和合の武の道である。しかし、今の世界はまだ争いの文明から離れることができないでいる。民族と民族の争い、宗教間の争い、貧富間の争いが地球上で頻繁に起こっている。

合気道の稽古でも、ともすれば勝ち負けや優劣の争いに陥りやすいといえるだろう。自分は素直に受けを取っているし、相手を痛めないように投げているから争っていない等と思っているだろうが、よく観察してみると、手を出すのにも必要以上に力を入れて押したり、引っ張ったりしている。これは、ミクロの範囲で争っているといえるだろう。それは、例えば相手の手をがっちり持つかわりに軽く手を掴んで受けをとると、その手が離れてしまうので、争っているのがよく分かるのである。

相手の手が離れてしまうというのは、二つにわかれてしまうのだから、和合ではなくなり、争いということになる。

合気道の相対稽古では、少なくとも相手と接した時点から、技(の形)の終局で投げたり押さえるまで、一つに和合していなければならない。つまり、相対する二人は、初めから最後までひとつにむすんでいなければならない。二人がむすんでいなければ、一人一人がばらばらに考え、動くわけだから、(確率的にも、全く同じ考えと動きになる割合は皆無であろうから)結局は争いになることになる。

何ごとも最初が肝心である。最初に相手と接した瞬間に、相手と結んでひとつにならなければならないが、それはとりわけ難しい。なんと言っても武道であるから、受けの方も取り(仕手)を打ち込んだり、押さえ込むつもりでくるはずである。その厳しく攻撃してくる相手とむすぶのは、容易ではないのである。

開祖は「どうしても、天の浮き橋に立たなければなりません」と言われている。技をつかうときは、まずは「天の浮き橋に立つ」ことである。

「天の浮き橋」とは、簡単に注釈してみると、体(魄)と心(魂)の縦横十字の姿であり、魂魄のバランスがとれて、0(ゼロ)状態であるといえるだろう。まず、体は力まず、雲の上にのっているように立ち、相手に対しても余計な力を加えず、あたかも水の中を遊泳するような感覚で体をつかうことになる。

次に、「天の浮き橋」の心(魂)であるが、0(ゼロ)になるというのは「自己を無にする」といえよう。相手を投げようとか、やっつけようとか、格好よくやろう等とは考えず、心の響き、つまり宇宙の響き(言霊)を感じるようにつとめ、それに従って技をつかっていかなければならないのである。

開祖は『武産合気』で、「天の浮き橋に立つ」とは「自己を無にする」ことであり、そして「自己を無にする」ことは「真空の空のむすび」といわれていると考える。

道歌に「真空の空のむすびのなかりせば 合気の道は知るよしもない」と詠われている通り、合気之道は、天の浮き橋に立たないでも、自己を無にしないでも、つまり真空の空のむすびがなくても、その道を進むことができない、つまりは、技も効かないということになるだろう。