記憶に残る大先生の言葉を自分なりに解釈してきたが、まだまだ難解で理解できないものが沢山ある。
その中で今、気になり、興味があるもののひとつが「天の村雲九鬼さむはら竜王」である。開祖は、「天の村雲九鬼さむはら竜王」とは血脈を結んでおり、故に合気の使命があると、常々話されていた。
そして、"天の村雲"とは、「宇宙の気」「オノコロ島の気」「森羅万象の気」を貫いて息吹くことをいい、"九鬼"とは、オノコロ島に発生したすべての物の気、九星の気。 "さむはら"は、宇宙の森羅万象の気を整えて、世の歪みを正道にもどすことをいい、正しい意味での武の道と説明されている。そしてこのお話をされたときは、杖や扇子などで神楽舞をされたが、天を突き、そして地を突いて両足で地(床)を踏みしめたのが印象的であった。
しかし、「天の村雲九鬼さむはら竜王」とはなにか、なぜ重要なのかなど、全然分からずにきていたが、この「天の村雲九鬼さむはら竜王」という言葉が耳に残っているし、何とか分かりたいと、無意識のうちに探求はしていたようだ。
これも不思議なのだが、意識しても無意識でも何かを探していると、何かが声をかけてくれるようだ。もしかすると、いつも声を掛けてくれているのに、こちらが気がついてないのかもしれない。
今年で101歳になる詩人のまど・みちおさん(写真)が、詩集を出版した。まど・みちおさんは誰でも知っている童謡『ぞうさん』の作詞者である。その新聞広告が偶然目について、その日に書店に行って購入した。
興味をもったのは、作者の名前ではなく、本のタイトルと著者の年齢であった。タイトルは、「詩人まど・みちお100歳の言葉 『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』」(新潮社 2010年12月刊行)で、100歳の人が書いているということと、宇宙を感じているということが気に入ったわけである。
自分はやっと70歳になろうとして、ようやく自分のことや宇宙のことに関心が向いてきたところだが、それがどういうものなのか、まだまだわからない。100歳ぐらいになるとそれは分かるようになるものなのか、そしてそれがどのぐらいわかるものなのか、大変興味があるところである。
開祖は、合気道は宇宙の道であるとか、合気の技は宇宙の法則、宇宙の営みを形にしたものであるとかいわれているので、宇宙が分からなければ合気道の精進はないことになり、宇宙の探求は避けられない。しかし、容易ではない。ひとりでどんなに考えても、答えは出ないだろう。何かの助けが必要だ。だがそれが何なのか、いつ現れてくるのかわからないし、現れてくるかどうかも分からないのである。
先に、「天の村雲九鬼さむはら竜王」を潜在的に考えていたと書いたが、この解明のためのヒントがまど・みちおさんの詩集にあるような気がする。彼は詩人であって武道家ではないが、それを体で感じていて、素直に詩にしていると思う。これは若い内は、なかなか出来ないと思う。80歳以下の人がこれを書いたとしたら、きっと興味をもたず、購入することも立ち読みすることもなかっただろう。一つのことに没頭し、100歳になって書くから、信用できるし、安心して読めるのだと思う。
詩集の中では次の詩が、「天の村雲九鬼さむはら竜王」を説明しているように思える。
私にとってのふるさとは、はるかな地球の中心の方、
引力の方向なんですね。
空の雲も、アイスクリームも、人間の作った建物も、樹も、
みんなと一緒になって地球の中心をさし、
ありえないことですが、
それを突き抜けて太陽の中心、
おおげさなことになるが、
銀河宇宙の中心を、通り抜けていく感じがするんです。
(まど・みちお『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』(新潮社)
この感じは、「天の村雲九鬼さむはら竜王」になられた大先生のものと同じではないかと思うのである。我々は「天の村雲九鬼さむはら竜王」にはなれないだろうが、宇宙の中心に立って仕事をしなければならないといわれているし、宇宙と一体化することが修行の目標ともいわれている。
合気道の修行者もこのような感じを持つように修行をすれば、宇宙の中心に立てるようになるし、宇宙との一体化ができるようになるのではないだろうか。
「天の村雲九鬼さむはら竜王」の入口の扉をやっとこじ開けることが出来たかも知れないが、この銀河宇宙の中心を通り抜けていく感じを実感でき、これを技に表せなければ、分かったことにはならないから、分かるまでにはこの道はまだまだ遠く、時間がかかりそうだ。
参考文献
まど・みちお『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』(新潮社、2010年12 月20日刊)