【第236回】 宇宙と一体化するために

合気道の修行の目的は、宇宙との一体化であると開祖は言われている。大それた事であるが、開祖が言われているのだから、それを信じて精進していくしかない。開祖の言われることが信じられないのなら、合気道をやっていく意味がないだろう。

しかし、やるにしてもどうすればいいのか、皆目見当がつかないのが実情である。念仏のように「宇宙との一体化」と唱えていても、一体化できるものでもないだろうし、そうかといって稽古をただ続ければいいということでもないはずだ。そこには、何か宇宙との一体化への道があるはずである。

稽古事には目標があり、そのためにやるべきことがある。合気道も宇宙との一体化という目標があり、そのためにやるべきことがある。一つではないだろう。沢山あるはずである。それを段階的にひとつひとつ自得していかなければならないのだろう。

宇宙との一体化でやらなければならない第一段階は、技の練磨において、自分の技が理にかなっているかいないかを感じて、技を練磨していくことであると考える。合気道の技は宇宙の営みを形にしたものであるといわれるのだから、本当に理に適っているとしたら、自らも宇宙の営みをすることになる。自然で無駄が無い、自分にも相手にも心地よい感じがするはずである。しかしこれは、はじめは容易ではないだろう。どうしても相手を倒そうとか、技を極めようなどと思ってしまい、自分の技を感じる余裕がないからである。また、肩が貫けていなければ、手先と腰腹が結びつかず、相手の力や自分の力や微妙な体の反応を腰腹で感じられないからである。それに初心者のうちは、技には理があることに気がつかないし、理合ということががまだわからないからである。

本来、人は理に適うように生きるべく、また生きたいとプログラムされているのではないだろうか。理に適えば美しいし、正しいし、強いし、自分に対しても、また、相手に対しても説得力がある。理に適わなければその逆になるわけで、人は無意識のうちに、より美しく、正しく、強く、の方向に向かっているはずである。人類を歴史的に見ても、一時的に逆と思われる方向に行ってしまったこともあるだろうが、大筋では理合で進んでいるといえるのではないだろうか。

技の練磨においても、無意識のうちにその方向に進もうとしているはずである。理に適った動きができ、技が遣えれば誰でも嬉しくなるし、どんなに派手に相手が跳んでも理に適っていなかったり、その理を感じられなければ本当の満足はないはずである。

感じるためには、まず相手との接点に意識を集中することである。ただし、接点に集中すると同時に、相手の全体を感じなければならない。そうでないと、その隙に相手に攻撃されたり、手を出されたりするかも知れない。感じて、感じないという二律背反である。

次に、接点や相手を目で見ないで感じることである。目で見てしまうと、感じが半減するか、感じられなくなってしまうものだ。これも、相手を全然見ないわけにはいかないから、見て見ないという二律背反である。

感じることは、言うならば「ひびき」を感じることである。自分の力の作用や効果、相手からの抗力、相手の動きなどを、見ないで感じるのである。これができれば、今度は相手と直接接しなくとも、相手を感じることができるようになり、そして最後には、宇宙を感じることができるようになるのではないだろうか。これを、「山彦の道」というのではないだろうか。

まずは、技の練磨を通して、自分の技が理に適っているのかいないのか、より深い理合を探求して、それを自分の体で感じていくようにすれば、相手を感じ、次に自分の周囲を感じ、そしていつの日か宇宙を感じ、宇宙と一体化できるようになるのではないだろうか。希望を持ち、自分を信じてやっていく他はない。