【第230回】 合気道は武道

合気道は今や世界中に普及しており、老若男女150万人ほどが稽古しているといわれている。結構なことであり、喜ばしいかぎりである。開祖も喜んで下さることだろう。

しかし、もし開祖が今の我々のやっている合気道の稽古をご覧になったとしたら、いろいろご不満を持たれるだろうと想像できる。開祖が亡くなられてからほぼ半世紀が経っており、社会も人の考えも大分変っていて、かつての柔術的で、硬い、力をつける稽古は、今の人や社会に合わないことはお分かりになるはずだろう。だが、それを考慮にいれても、今の稽古にはいろいろなご不満を持たれるのではないかと思う。

そのひとつは、多くの人がますます合気道を武道として稽古しなくなってきていることだろう。つまり、スポーツ感覚で稽古しているということである。そもそも、スポーツと武道の違いが分からないで稽古しているように見える。

私はスポーツが悪くて武道がよいなどとはいっていない。スポーツはスポーツで立派な役割があり、人と世の中に必要であると思っている。人間の肉体的能力のレベルアップは、スポーツによるところが大きいと考える。走ったり泳ぐ速さ、跳び上がったり、遠くに跳んだりする高さや距離などなど、人間の能力限界の記録をつくり変えている。特に、オリピックや各種の世界大会での世界記録は、ここまで出来るものなのかという、人間の能力に対する感動と、どこまで記録、つまり能力が伸びるものであるかという期待と夢を与えてくれる。 しかし、合気道はスポーツではない。スポーツのように、世界記録をつくりかえたり、勝つことが目的ではない。スポーツのように、その瞬間(例えば、勝負や試合)が大事ではない。スポーツでは、そこで負ければ終わりである。武道の合気道では、相対稽古で相手に技が掛からなかったり、抑えられても全然問題はない。それを糧として、いつか出来ればよいのである。武道では、かえって失敗した方がよい場合の方が多い。

スポーツには、ルールがある。あれをやっては駄目、これをやったら違反、反則などになる。武道には、本来、それはない。基本的にはなんでもあり、である。従って、合気道も攻撃してくる相手の攻撃が、予想もつかないものであっても、いつでも避けられるよう、スキをつくらないようにしなければならない。

合気道では、受け側が攻撃する場合も、初めの一回だけと考えてはならない。相手の前に立ったり、背中を見せたら、反撃されてやられてしまうことになる。スポーツならルールがあるだろうが、人道的にもそんなことはしないだろうと相手に甘えて安心したりしてはいけない。少なくとも隙をつくったことに気付き、武道としてはそこでやられたという意識を持たなければならない。

技を掛ける取りも、常に受けに隙を与えないように、技を掛けていかなければならない。正面打ちで手を上げる場合でも、相手の水月、胸尖、壇中、喉(肢中)、下昆、人中、鳥兎、天倒の点を結ぶ線の軌跡を描いて打たなければならない。そして、いつでも手先でその軌跡にある急所を突けるように、指先に気持ちを集中させて打たなければならない。

また、正面打ちから一教で相手の手を抑えても、外側の手は何時でも相手の顔面を突けるように、気持ちを手先に集中しなければならない(写真)。だが、実際にやってはいけない、突きや当て身など出来ることはやらない、と教わっている。合気道と違うものになってしまうからである。しかし実際に手で突かなくとも、気持ちは突いていなければならない。出来るのにやらない、これが武道の厳しさでもある。

武道とは本来、命のやり取りのためにつくられた技術である。相手の攻撃からいかに身を守るか、相手を如何にすれば制することができるかを、先人達が考えに考え抜いてできた技である。人間の体と体の機能、人間のこころなどを知りつくし、それを徹底的に活用した技である。生半可に鍛えた体では、武道の技は遣いこなせないはずである。原点に立ち返って、体とこころを見つめなおし、それを身につけて遣っていかなければならないだろう。

だから、武道は一生ものである。スポーツは勝てないと分かれば引退である。武道の合気道に引退はない。合気道で引退するとしたら、合気道をスポーツとしてやっていたことになる。

武道の体と武道のこころを、技の練磨を通してつくっていかなければならない。スポーツの敵は相手だが、武道で打ち負かさなければならない敵は自分自身である。この敵は生きている限り一緒だし、いつも、そしていつまでも勝負を挑んでくる。

武道は自分が死ぬまでその敵と戦うべく修練しなければならないのだから、終わりはないはずである。死ぬ時はそのライバルと一緒。出来るうちに、仲良く勝負をしていきたいものである。