開祖は言うに及ばず、直弟子であった諸先生方も、人間を超越したような業を使われていたことは周知の事実である。いわゆる人間離れした業というのは、人間が人間としていかに鍛錬しても、その延長上にその人間離れする業という結果が出る訳がないということであろう。
人間を超越した、人間離れした業を身につけるには、人間を相手に、人間である自分だけに頼って鍛錬や修行をしても不可能であろう。それには、自分より大きな、自分を包みこみ、生かしてくれているものの力をお借りすることしかない。つまり、山や海や大地や日月等である。だから、昔から人間離れした業、神業(かみわざ)を会得するためには、山に籠ったり、滝に打たれたり、野山を歩いたり、深山幽谷で瞑想するような修行をしたのだろう。
合気道の相対稽古で技を掛け合う時も、自分の力だけに頼ってやったのでは、人並みのことしか出来ない。それでは、相手も満足して倒れてくれないだろうし、自分自身も満足できないはずである。なぜならば、人間同士のことをやっている場合には、どうしても自分たちの求めているものとは違う、という感じを持つからではないだろうか。つまり、合気道の修行の目的である宇宙との結びつきが出来ない、となんとなく感じるのだろう。宇宙とまではいかなくとも、少なくとも人間を超えたものを会得するためには、自分を超えた何かの力をお借りして技を掛ける稽古をしなければならない、とだれもが感じているのではないだろうか。
自分を超えるものにはいろいろあるだろうが、その一つに「地の呼吸」というのがある。開祖は、「人は大地の呼吸と潮の満干をうけとめている。」と言われる。大地の呼吸とは潮の満干である。これを開祖は「塩盈珠(しおみつのたま)」「塩ひる珠」と言われている。
それではこの大地の呼吸を、わざ(技と業)でどう遣わせてもらうかということになるが、最もポピュラーな基本技である「片手取り四方投げ」(右半身)で、これを説明できるのではないかと思う。