【第197回】 相手の力を利用する

人にはちょっと背伸びして偉そうに言う性(さが)がある。本人は本当に分かっていたり、できるわけではない。悪気があるわけではなく、聞いている人も半身半疑であるし、大体は言っている本人が本人自身に言っているものである。自分には出来ないが、こうであるべきだと思うことを言っているわけである。

例えば、「合気道には力が要らない」とか「相手の力を利用する」等などである。 しかし、このように悟ったようなことを言えるのは、開祖や名人、達人、高段者であって、初心者が言っても何のことか本人自身も分からないものだし、ましてやそれを体や技で表現することなどできないものだ。

「合気道には力が要らない」とか「相手の力を利用する」等などは、稽古の目標であるが、そう思っても誰でもすぐにできることではない。

「合気道には力が要らない」に関しては、以前に書いたと思うので、今回は「相手の力を利用する」とはどういうことなのか、どうすれば相手の力を利用することができるようになるのかを、「格好よく言われる」例として考えてみたいと思う。

まず「相手の力を利用する」を分解して見てみると、「相手の力」と、「利用する」ということになる。「相手の力」にはいろいろある。強い力、弱い力、押す力、引く力、戦闘的な力、やる気のない力など等である。そして、この力を利用するというのである。

このように、力にもいろいろあるし、相手によっても違ってくる。それ故、強い力、押してくる力、戦闘的な力だけに対応できても駄目だし、ましてや弱い力にだけ対応できても駄目である。対応できなければ利用など出来ない。

それではすべての種類の力にも対応するにはどうすればいいのかということになる。それに対応するには、相手と結んでしまわなければならない。引っ張られたり、抑えられたり、または弾き飛ばすのではない。相手と一つになってしまうのである。一つになれば、相手の力がどんなものであろうと同じになるだろう。強かろうが、押そうが引こうが関係なくなるはずである。

結ぶためには、相手の力を自分の腰に貯めることである。手を持たれようが、肩や胸を掴まれようが、相手の力を腰で吸収してしまうのである。開祖は晩年よく、足を出して腰を下ろした態勢で前から頭を押させておられたが、びくともしなかったのは相手の力を腰に吸収していたのだと思う。(写真)

腰に力が溜まるということが、最も分かり易いのは「坐技呼吸法」であろう。相手に両手首を掴ませて、力いっぱい押させたり引っ張らせるのである。その力を手や上半身で受けると、相手の力に負けてしまうが、折れない手から腰に貯めれば、相手が力を入れれば入れるほど、腰には力が溜まり、大きな力になる。腰に大きな力が溜まれば溜まるほど、その大きな力を遣えることになり、相手を制することが容易になる。

逆に、弱い力とか、やる気があるのかないのか分からないような力の相手を制するには、多少自分の力が要ることになろう。相手の力が利用できないからである。大先生もいっておられたことがあるが、鬼一法眼(注:剣術の源流ともいわれる京八流の始祖、源義経を育てたといわれる)の「来たるを迎え、去るは送る、対すれば相和す。五・五の十、一・九の十、二・八の十。活殺自在」という通りである。これが「相手の力を利用する」ということではないかと考える。

もう一つの「相手の力を利用する」例として分かりやすいのは、四方投げでも入り身投げでもよいが、相手と結んで一体となって動きながら、相手の中心に力を通してやれば、相手は必ずそれに対抗して抗力を出して動いてくるものである。重心を足に左右移動しながら動いていき、相手からの抗力にこちらの動きを合わせて振っていけばよいわけで、相手が力を入れたり、力があればあるほど動かしやすくなるものだ。これはあたかも波が来ては引くという動きで、「地の呼吸」であると言えよう。もしかすると、これが開祖が言われる「塩盈珠(しおみつのたま)、塩ひる珠」というものかもしれない。

さらにもう一つの「相手の力を利用する」例として、相手を倒すのではなく、倒れてくれるようにすることである。相手を倒そうとすれば、相手は反抗するから大きな力がいることになるが、相手が自ら倒れてくれれば、「相手の力」で倒れてくれるわけだから、「相手の力を利用する」ことになる。

このためには相手と結ばなければならない。結んで動けば相手は自由に動くことが出来なくなり、動けるのは倒れることだけとなる。自分で倒れてくれるわけだから、「相手の力を利用する」ことになる。

「相手の力を利用する」は可能なことなのである。そうなれば、自分の力だけに頼って技を掛けるのは、ご苦労なことということになる。「相手の力を利用」し、そして、また相手が自ら喜んで倒れるようにしたいものである。