【第161回】 心

合気の道を進むために、相対稽古で技を練磨し合うが、技をかけても相手はなかなか思うように倒れてくれないものだ。相手が倒れないと、なんとか倒そう として力で押さえつけたり、ひねったりしてしまう。特に体力のある者は力に頼りがちになるようだ。そうすると相手が対抗して、体と体がぶつかり合う争いになってしまうことになる。体が心と離れてしまい、体が反乱を起こしてしまうのである。

合気道の心身の修練で最も大事だと言われることは、手、足、腰を心に従って動くようにすることである。これを開祖は、「手、足、腰の心よりの一致は、心身に最も大切なことである。」と言われている。しかし、心の思う通りに体を遣うことは容易ではない。相手に受けを取ってもらう時には、技を磨こうと思って手足腰を遣うのだが、相手が少しでも頑張ると心が乱れ、相手に負けまいとして体が暴走し、心で制御できなくなってしまうのである。

心とは「情報を蓄積しているもの」といわれる。つまり、心は自分の時代以前の、有史以来の情報を持っているということである。従って、情報を蓄積し合っている人間の心と心は繋がっていることになる。合気道の相対稽古で技を掛けると、自分の心と相手の心は繋がっているので、反応し合うのである。

現代はまだ物質文明の社会である。モノが優先して、精神(人間の心)がモノに翻弄されている社会といっていい。開祖は、これでは争いが止まないので精神がモノ(魄)の上に来る社会をつくらなければならないとされ、そのために合気道を修行するのだと言われている。従って、合気道の稽古では、最終的には心を中心の修練をしなければならないことになる。まずしっかりした合気の体をつくらなければならないが、体ができたならば、今度はその体を暴走させないように心を養生し、その心で手、足、腰を自由に遣うことができるようにしなければならないのである。

弓術の極意でも、「身体手足の論にあらず、心機の如何(いかん)にある。心機が至妙の境にぴたりと収まっていなければ、たとえ十本射放っても、的にあたるものではない。」(『弓と禅』)として、心が手足に優先すると戒めている。

合気道では、技を掛けて相手を倒す稽古をするが、正確に言うと、相手を倒すのではなく相手が自ら進んで倒れるのである。自ら倒れるように技が遣えるようになるまで、稽古をしなければならない。そのためには自分の心と相手の心を結び付けることが大切である。もし自分の心に邪心があれば相手の心は結んでくれない。相手の心と結ぶために大切なものは、開祖が何時も言われていた「愛」であろう。愛とは相手を慮る(おもんばかる)ことである。「相手の仕事を邪魔しない」よう、相手の不足しているもの、相手の不満を見つけてやるという愛の心で技を掛けるということになる。そうすれば相手の心はこちらの愛に感謝しながら、本来は倒れるように出来ている技の通りに、倒れていくことになる。

開祖の言葉によれば、「術の稽古ができてくると、相手よりも先にその不足を満足させるように、こちらから相手の不満の場所を見出して、術をかける。この不満を見出すのが合気の道でもある。」ということになる。心の合気の道を進みたいものである。