【第148回】 敵をつくらない

合気道は相対稽古を通して精進するものであるが、相手がいるので、なかなか思うようには行かないものである。上手く行かないのは、自分の未熟であったり、相手の腕が勝っていたりするわけだが、それがなかなか自覚できない。上手く行かないと、がむしゃらに技を掛けようとして、合気道の技とはいえないようなもので何とか倒したり、押さえようと力んだりする。こうやるべきではないと思いながら、やってしまうものだ。

初心者、とりわけ若いうちは、力をつけ、しっかりした体をつくるために、相対稽古の相手を「敵」と思うほどの対抗意識をもって稽古をするのもいいだろう。しかしながら、高段者になっても、相手を「敵」と思うのは止めなければならない。開祖は、「敵をつくるな」と、われわれ合気道同士に教えられているのである。

日常生活でも、家族、身内、知人以外は、知らない他人をどうしても敵と見てしまいがちである。人間が多すぎて競争が厳しいためか、この歴史的に培われたと思える習性は、稽古にも反映されるようだ。しかし、その他にも、相手を敵とみなすという武道や武術の本質的な宿命がある。それは、敵を技で制する、相手に勝つことによって精進するというのが、武道や武術の根本原理であるからである。合気道は、この武道の根本原理を超越して、「敵をつくらない」で精進、上達せよというのである。

「敵」というのは、こちらに反発する意志を持って、それを動作で表す者ということであろう。いやいや押さえつけられたり、行きたくもない方向に行かされたりすると、「おのれ!」と反発心を起こすだろうし、高じれば体で反抗するようになる。すると、争いになり、相手は「敵」となる。

「敵」ができる根本的な原因は、自分がいて、相手がいるからである。二つのものがある以上、そこには葛藤が生まれ、争いが起こり得る。一つのもの、一人であれば「敵」はいない。誰も邪魔しないし、自分の思うように動ける。ということは、相手と自分というのがなくなればいいことになり、相手と自分が一つ、一人になればよいことになる。一人になれば、自分の思うように動けて、技も自由に掛けられることになる。

もちろん、二つのもの、二人が一つになるのはそう簡単ではないだろう。弾きあった稽古をしていたのでは、一つにはなれない。二つが結ばなければならないが、引力が弱ければ難しい。引力の養成である合気道の稽古を、引力がつくように修練しなければならない。だが、引力をつけるのも、そう簡単ではない。そのためにも、いろいろなことを身につけていかなければならない。

敵をつくらないために、もうひとつ大事なことがある、それは、技を掛ける前の心構えである。稽古相手をする相手に感謝することである。ここで出会い、一緒に稽古ができることに感謝することと、こちらの一部となって動いてくれることに対する感謝である。相手は「敵」ではなく、自分の精進のための「サポーター」(支援者、援助者、分身)になっているという意識である。一人では技の稽古は難しい。砂漠や原野で稽古をしてくれる相手に会ったと思えば、うれしいし、相手に感謝するだろう。

相手と結んで一人になれば、他人を「敵」と思って、「敵」を倒すことに気をめぐらすことも必要なくなるから、如何に上手く自分の体と心を使うか、如何に技を向上させるかに集中できるようになり、本来の合気道の稽古ができるようになるはずである。稽古相手の力や能力を邪魔したり、排除するのではなく、相手を引き出し、生かしてやるようになる。そうされると、相手は、肉体的にも精神的にも満足して、気持ちよく受けを取るし、終わった後も気持ちよく満足できることになる。ここまでくると、合気道の奥深さに触れ、また合気道の稽古が楽しくなる。

さらに、道場だけでなく、日常生活でも、他人に競争心や敵愾心を持たずに、結んで一つになり、相手を生かすことができるようになれば、この競争社会を変え、戦争のない世界をつくる一助になるのではないだろうか。