【第133回】 気形の稽古

合気道の稽古は、はじめ合気道の技の型を繰り返し稽古する。これで技を覚え合気の身体を作るのである。

開祖の居られた頃、われわれは力一杯、腕力の稽古をやっていたが、開祖が我々に示すものはそれとは対照的に、力の籠もらない、美しい軌跡を描く舞いのようなものであった。しかし、自主稽古で先輩が開祖の真似をして、受けも取りも力を抜いて流れるような動きの稽古をしたりするところを開祖に見つかると、「そんな触りもしないで飛ぶような稽古はするな!!!」と叱られた。先輩もわれわれも、開祖がやられたことを真似してやって何故怒られたのか、当時は分からず釈然としなかったものだった。

開祖は、われわれが力一杯やっていれば、あまり怒ることはなかった。力一杯の稽古を廊下や事務所からご覧になると、よく稽古中に道場ににこにこしながら入ってこられて、「そんなに力をいれなくてもいい。合気道は米糠三合をもつ力があればできる」といわれ、一寸内弟子を軽く飛ばしたり、押さえたりして、満足げに出て行かれるのだ。力を入れるのか抜くのか、ますます分からなくなったものだが、とりあえず力一杯やっていた。

合気道新聞にも書かれているが、開祖は「合気の稽古はその主なものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真の大なるものが真剣勝負である。」といわれていた。考えるに、これが本格的な合気の稽古ということなのだろう。開祖が当時われわれに、気形の稽古を許さなかったのは、まだ早いということで、その前にもっと身体を鍛錬しろということだったと思う。

しかし、いずれは誰でもこの本格的な合気の稽古に入らなければならない。ある程度、合気の身体ができたらば、気形の稽古に入るのである。気を鍛錬するのであるが、その鍛錬の仕方はそこに示されている。つまり親の敵などを倒すときのような「真剣勝負」「命をかけた」つもりで、気を養えということである。だが、合気道は愛の武道とも言われるように、親の敵などと思って受けの相手を投げたり抑えたりすることはできないわけであるから、この「真剣勝負の気」と「愛の気」の両方を如何に鍛錬するかは難しい。

だが、ここに合気道の面白さと、奥深さがあると言えよう。つまり愛の「わざ」の中に真剣勝負の厳しさがあり、愛と厳しさが表裏一体になっているわけである。この両面を備えた「気」による「わざ」、「気形」の極限においては、開祖が示されたように、相対相手に逆らう気持ちも起きず、あたかも一人である如く、舞のごとく、触れずして相手は倒れて行くようになるのだろう。

そうなるために、愛と厳しさをますます強力に入れて、稽古をしていかなければならないことになるだろう。