【第2回】 稽古も人生もロマンで

合気道家や武道家はロマンティストといえよう。合気道や武道を修行している人は、それぞれの目標を持ち、それに向かって精進している。しかし、その目標に近づいても、更なる上の目標ができたり、また、その最終の目標に近づいたと思っても、完璧にはできることはなく、決して完成できないことも自覚している。それはある意味では悲劇であるが、ロマンでもある。

人は必ず死ぬ。永遠に生きることは出来ないが、出来るだけ長く、自分の道を極限まで究めようとする。人生もある意味では悲劇といえるかも知れないが、ロマンである。

武道の稽古には試合がない。スポーツと違ってルールがないので、試合をしたとしたら命を賭けることになる。若いころの私は、毎日ひとりで黙々と砂まみれになっていた。中学・高校とハイジャンプで自分なりのレベルアップをはかり、成績を少しでもよくしようと自分なりのアイディアで鍛錬を重ねていた。結果は東北大会で代表となり、全国大会に出場したのである。

しかし、そういう経験をしたおかげで、自分の見方が変わっていった、勝負は常に一方が勝ち、他方が負ける。当人たちにとっては勝つことは重要であるが、大局的に見れば勝ち負けや順番は相対的かつ便宜的なものであって、あまり意味がないともいえる。つまり誰かが勝ち、誰かが一位・二位・三位になるだけのことである。
それからは、自分で一生続けてやれる何かを探し求めた。そして、合気道と出会ったのである。

武道においても、自分のレベルを知りたいと思うのは当然である。でも、試合がないのでスポーツのようなランク付けはできない。自分で、または他人が想像するだけである。しかし、相手の手、体に触れた時、あるいは名人や達人ともなれば相手を見るだけで、その人のレベルがわかる。従って、試合をする必要はないのである。

武道で自分のレベルを上げるには、稽古、修行しなければならない。しかし、これは必要条件ではあるが、やったからレベルアップするという保証はない。例えば、誤ったことをやれば上達どころか退化することもあるわけである。
また、一所懸命稽古しても、上達するのは紙一重ほどである。漫画や映画のように、急に人がかわったように上達することはない。従って、武道の稽古は何年も何十年もやらなければならないのである。何十年もやってやっと厚紙ほどの上達があるだけだ。

どれだけ上達するかは、その人の才能、努力、運などによるし、目標の設定の有無にもよる。こんな風になりたいと、それに向かって稽古をするのである。それに向かって一歩一歩進むのである。ある時は、次の目標が見えてくるだろうし、その目標が遠ざかっていったり、目標に全然近づけなくて焦ることもあるだろう。それにめげずに頑張るのである。少しずつでも近づけばいいのである。目標には無限に近づける可能性はあっても、残念ながらそこに到達すること決してできないのである。名人や達人は死の直前がもっとも強かったといわれるのは、このためである。

他と比較したときや、争ったときには、ロマンは失われる。ロマンを追い続けることができるのは自分との戦いの中でしかない。相手に勝とうとすれば、相手に勝つことが目的になってしまい、無理をしたり、場合によってはルールを無視したことをやってしまうことになる。また、どうしても体力、腕力または金力がものをいうことになり、物質文明の暗い面を見る思いがしてしまう。スポーツでも、神業的プレイを見れば感心することもあるが、それは若くて、パワーがある時期だけであり、80、90歳の高齢者や老人になってまで続けて出来ないのがわかっているだけに、どこか不自然で空しい気がするのである。中国の老人が伝統的な中国武術を楽しんでいる写真をみると、自分も80、90まで頑張ろうと元気づけられる。

自分との戦いではウソはつけないし、ごまかしもできない。ただ努力するのみである。今までできなかったことができるようになり、解らなかったことが解ったときの喜びほど大きいものはない。人生には、無限に知ること、やることがある。それをすべてやりとげることは、どんなに人が一生かけてもできるものではないが、少しでもそれを解明していくのは楽しいことである。自分はどこから来て、どこへ行くのか。こんな事もあるところまでは知りたいものである。すべてのコトは出来ないし、一つのコトも完璧にはできないが、一歩一歩それに近づく努力をするというロマンに生きたいものだ。