【第935回】 体が反応する

合気道の習い初めは容易であるが、段々と難しくなり、そしてますます手の施しようがないように難しくなることに、以前から不思議に思っていた。普通の事なら、はじめは難しいが、その後は段々と容易になるはずだからである。一般的な勉学はそうだろうし、科学の世界もそうだろう。その世界にいる人には叱られるかもしれないが、私はそう思うのである。
合気道と学問、科学、ビジネス等の大きな違い、質的違いはいろいろあるということである。
宇宙(時間と空間)的違いや次元的(顕幽神)違いの他に、合気道は体をつかわなければならないから体主体で動き、そしてまた頭主体で動くことだと考える。学問、科学、ビジネスに頭が重要であるが武道的な体は重要でないことは説明がいらないだろう。
合気道は武道であり、相手を投げたり押さえたりするから体が重要なのは当たり前だと思うだろう。それは正しいが、合気道に体が大事という意味が更にあるのである。この更なる体の働きの重要性が認識できなかったり実践できないことが合気道の難しさになっていると考えるのである。

大先生の教えの『合気神髄』『武産合気』を繰り返し々々読んでいるがようやく大先生の教えがわかり出して来たところである。分かり出したということは、その箇所の教えに体が反応するという事なのだ、ということが分かった事でもある。頭で理解できたということではなく、体にビビットくるのである。そしてこれはこういう事なのかと実感するとともに理解できたと自覚できるのである。
今日読んだ『合気神髄』でビビットきた箇所を記す。その章のタイトルは「宇宙の変化の真象を見逃すな」(P.106)である。全文を記したいところだが文量が多くなるので抜粋したものにする。三文節になる。

「武を修する者は、万有万神の真象を武に還元さすことが必要である。たとえば谷川の渓流を見て、千変万化の体の変化を悟るとか、また世界の動向、書物をみて無量、無限の技を生み出すことを考えるとかしなければいけない。合気道はこのように間接に、宇宙の真象の一部を通じて創造されることが可能であるから、どんな微妙な宇宙の変化の真象をも見逃すことなくなく、注意して修しなければならない。」
「我々の造化器官は身魂を通じて複雑微妙なる働きを示して武を顕すが、絶えずこの身魂、すなわち六根を清浄することが必要であり、いつでも魂の比礼振りを起こさす状態に自分をおくべきである。魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である。その魂の比礼振りは融通無碍で固定したものではない。ゆえに合気道の技は固定したものではなく、臨機応変、自由自在の技である。合気道はこの魂の比礼振りによって、生ずるか、根元はあくまで、宇宙の真象のなかより、生ずるひびきのなかにあることを忘れてはいけない。あくまで宇宙の真象をよく眺めるべきである」
「合気道はこの魂の比礼振りによって、生ずるか、根元はあくまで、宇宙の真象のなかより、生ずるひびきのなかにあることを忘れてはいけない。あくまで宇宙の真象をよく眺めるべきである」

これは言うなれば、魂の教えである。魂とは何か、魂は何処にあるのか、また、合気道は魂によって生きるということ、魂が起こる状態に置かなければならない事であり、そのためには六根を清浄にし、そして宇宙の真象をよく眺めなければならないということであろう。

これまで魂を探究し試行錯誤しながら技を練り、頭で考えてきて飽和状態にあったことで体がビビット反応したように思う。
特に、「宇宙の真象をよく眺めるべき」という事がこれまでよく分からなかったが、これが大事な事を実感した。頭ではこの重要性を理解できないはずである。
それでは、何故、谷川の水の流れのような宇宙の真象を眺めれば合気道が精進できるかということになるが、それを次のように考える。

これまでの合気道は己の力で技を練ってきた。顕界の稽古では己自身の肉体主体の力、幽界の稽古では己自身の精神力や気力や息づかい等である。しかし次の神界の稽古は別の力によるものである。それが魂の力であると考える。この魂は天地、自然、宇宙に在り、営んでいるのである。故に、魂を神ともいうのであろう。宇宙の真象を眺めるということは、魂の営みが眺められるという事になるわけである。谷川の流れ、月の満ち欠け、潮の干満等々である。頭で見るのではなく、体で観るのである。

合気道はこの意味でも難しい。頭だけでは理解できない。『合気神髄』『武産合気』も頭では理解出来ないはずである。体で読まなければならない。体でビビット感じなければならないのである。そのためには敏感な体をつくらなければならない。故に合気道の稽古をするのである。合気道は禊であるとはこれであったのである。