【第951回】 顕界だけでは限界

最近はボーとしていることが多くなり、楽しんでいる。勤めていた若い頃はボーとしていること等ほとんどなかった。やるべきことをどうしようかとか、この問題をどう解決しようかとか、常に頭はいっぱいで、頭が休まるのは寝ている時だけであった。
今は会社に行く必要もないので24時間自由である。やらなければならないこともない、自由である。しかし若い頃に憧れていたこの自由は、身を滅ぼす事にもなる魔物でもあることも実感する。多くの定年退職者を見ればそれがわかるだろう。
簡単に言えば、この自由の魔物を真の自由として満喫するためには、自由に対する束縛をつくらなければならないということである。合気道の陰陽、表裏一体の理合いである。

話しが少し逸れてしまったが、今回の本題に入る。ボーとすることを大事にしているという事である。ボーとするとは、現実を離れ、非現実の次元に入るという事だろう。合気道的には表現すれば、顕界と幽界の間に遊ぶということである。
私が一番楽しんでいるボーとする時は朝の寝覚めである。朝だなと思いながら目をつぶったままボーとしている。ボーとする時間は30分、時には1時間にもなる。何しろ時間は十分ある。いろいろな事が頭に浮かんでは消えていく。苦労して挑戦している技に対する助言やヒント、その後の朝の禊ぎのテーマ、大先生の合気道教えの解釈、合気道の技や思想の説明、論文のテーマの提案、その日にやるべき事等々である。
目が覚めている昼間でもボーとしている。家に居る時でも、道を歩く時でもボーと出来るようにしているようだ。先述したようにボーは顕界と幽界の間であるから、顕界での意識はあるのでどこでもボーとできる。因みに、スマホはあまり見ない。ボーを妨げられるからである。

合気道の禊ぎでもこのボーとする状態は問題ない。道場での相対稽古でも問題ないし、必要だと思っている。何故ならば、ボーの状態と相対する稽古の次元は魄の稽古であり、物質文明、競争社会の稽古になる。これを脱するためには次の幽界の気の稽古に入らなければならないからである。ボーという状態は損得や強い弱いや早い遅いなどの意識がない状態である。そして意識が無い状態になると、何者かが助け舟を出してくれたり、新たな、必要な力が現われるわけである。つまり、頭がシャキッと意識した状態では魄の稽古になってしまうわけである。

ボーが何故大事かをまとめると、①顕界・現界だけでは面白くないから ②現実離れした考えが生まれるから ③別の世界や別の世界の何ものかと繋がり、何か大事なモノが提供されるようだから ④異次元で遊べるから 等である。
顕界だけでは限界がある。ボーとするのもいいだろう。