顕界の次元の稽古から幽界の次元の稽古に入るのは容易ではない。多くの合気道家は顕界の稽古に留まり続け、幽界の稽古に入れずに終了している。それでもいいとする稽古人もいるだろう。それはそれで問題はない。問題は顕界の稽古から脱出し、幽界の稽古をしたいと思っている稽古人が幽界の次元の稽古ができないことである。
そこで長年稽古をし、長年生きて来た合気道の先輩としてその経験から、どうすれば顕界から幽界の稽古に入ることができるかを書いてみることにする。勿論、私見である。が大先生の教えが基になりっているはずである。
顕界と幽界と神界の次元の稽古があるわけだが、顕界と幽界、幽界と神界には壁があるからこの壁を貫けなければ次の次元に入る事はできない。
まず、最初の壁は、顕界、幽界、神界の違いである。顕界、幽界、神界の稽古があるということを意識し、区別し、稽古しなければならないことである。学者や言語学の解釈ではなく、合気道として、つまり技との関係で解釈しなければならないのである。そのためには卓上や頭の中での理解ではなく、体を駆使した技の稽古で理解しなければならいのである。体に教えて貰うということである。
勿論、大先生の教えも勉強しなければならない。『武産合気』『合気神髄』を繰り返し読む必要もある。両書は難解である。頭で読んでも理解出来ない。体で読まなければならないのである。体が理解してくれればその箇所は解るようになるのである。技の稽古と読書の両輪が必要なのである。これは人によっては難関であろう。人は読書するのは好きだけど体をつかうのは苦手とか、その反対であり、体をつかい読書もする人は少ないようだからである。
さて、顕界、幽界、神界の違いであるが、顕界はこの世の世界、現界であり、幽界は仏の世界、神界は神の世界といわれる。しかしこれを技稽古で区別するのは難しい。別の解釈が必要になる。それは次の通りである。
顕界の稽古とは、肉体主体の技と体の稽古である。これを魄の稽古と云う。
幽界の稽古とは、気の稽古である。気を生み、気を練る稽古で、気主体の技の稽古である。
神界の稽古とは、魂の稽古である。魂の学びでこれが合気道の究極の稽古といわれているものである。
まず、次の段階の次元は前との異次元であるから、これまでと質の違うことをやらなければならないということを自覚しなければならない。前の次元、顕界と同質の稽古をするのではなく、異質の稽古、多くの場合前と正反対の稽古をしなければならないのである。例えば、顕界の稽古では力を強化すれば技は掛かったわけだが、次の次元に入るために同じように力の強化をしても駄目なのである。異質の事をしなければならないのである。
それでは肉体主体の顕界の稽古からどうすれば次の次元の幽界に入れるか、言い換えれば、幽界へ入る準備ができるかということである。つまり、それをやったからといって次の次元の稽古ができるということではなく、それを繰り返しやっていくことによって徐々に幽界の稽古になっていくということである。
それは息である。息主体で技をつかうことである。顕界の稽古では肉体的力(腕力、体力)の魄力で技をつかっていたのを息づかいで体と技をつかうのである。息主体の稽古である。
それではどのような息づかいをするかということになる。それはイクムスビである。イーと息を吐き、クーと息を引き、ムーで息を吐いて体と技をつかうのである。
この感じがつかみやすい方法は、手を伸ばして、イクムスビの息づかいで、イーと息を吐きながら手を伸ばし、クーで息を引きながら手(手掌、腕)を拡げ、ムーで伸ばし拡げた手を更に伸ばすのである。後で気がつくのだが、これで手が気で満ち、張るということなのである。
このイクムスビの息づかいでの基本の稽古が呼吸法である。片手取り呼吸法、諸手取呼吸法、坐技呼吸法である。呼吸法が大事なのはここにあったわけである。大先生がご健在の頃は、今の様な準備運動がなく、呼吸法が準備運動かわりで、どの先生も大体は呼吸法から稽古は始めておられていたのである。有川定輝先生は呼吸法が出来る程度にしか技をつかえないと、晩年まで片手取呼吸法から稽古を始めておられた。今思えば、先生は片手取り呼吸法でこのイクムスビの息づかいを身に付けさせ、幽界の稽古入れるように我々を導いて下さっていたのだろうと拝察する。
しかし、イクムスビの息づかいも容易ではないようだ。自分もそうだったのでそれが分かる。何が容易でないかというと、イクムスビのクーで息を引く(一般的には息を吸うだが大きな違いがある。後述)事である。息を引く事に不安を感じるのである。それまでの顕界の魄の稽古では、息を吐く事によって力を出して来たからである。息を引く事によって力が出なくなり、技が上手くつかえなくのではないかという不安である。従って、どうしても力を出す際は息を吐いてしまう事になるのである。
その原因は息を引くという息づかいが理解できていないことである。息を引くを日常生活での息を吸うと思い、息をつかっているので力が出ないのである。引く息とは口だけで息を吸うのではなく、体全体に空気を取り入れることなのである。口だけでなく、腹、胸と体全体でするのである。それが出来れば大きな力が出るし、吐く息よりも強烈な力が生まれるのである。
それ故に、引く息が強力な力、エネルギー(気)を出すことを信じなければならない。これは私の独断ではなく大先生の教えなのである。
大先生は引く息は「火」、吐く息は「水」と言われているのである。行く息で大きなエネルギー、力が生まれるという事である。吐く息は水でその火を消してしまうのである。先ほどの手でも分かるし、呼吸法でもそれが実感出来るはずである。
この引く息は「火」を信じ、意識して技の稽古をすれば気が生まれ、気の稽古である幽界の稽古になるのである。息が気に変わってくるのである。そしてこの息から変わった気の妙用によって息がさらに変化し、武の本源が現われると続くわけである。それを大先生は「気の妙用は、呼吸を微妙に変化さす生親である。これが武(愛)の本源である。」といわれている。
先ずは引く息を大事にして、イクムスビで体と技をつかい幽界の次元に入って行く事である。