【第790回】 気を出す稽古の為に

前々回の「第788回 気を感じ、気を出す体のために」に引き続いて書くことにする。前回の論文を書いた後に、気に関して昔のことを思い出したからである。入門当時は、先輩や先生方は気を出す稽古や気を出すためにいろいろな事をやっておられこと、また、自分自身もやっていたことを思い出したのである。
当時、本部道場では、気が大流行りで、みんなが気を出せとか、気が足りないとか、気、気、気・・・と気を連呼していた覚えがある。しかし、多くの稽古人は気をよく解っていなかったし、気を知らない者ほど気と云う言葉を発していたように思う。先輩の話を聞くと、先代の吉祥丸道主がそれを気にしておられたということで、その内に気という言葉がつかわれないようになっていった。そして今も、気という言葉はほとんど使われずにいる。気と云う言葉が聞かれなくなるとちょっと寂しいだけでなく、不安になる。つまり、気を無視したり、大事にしなくなるのではないかと云う事である。それで、そろそろ”気“の復活をしてもいいのではないかと思うようになったわけである。

過っての気、気・・の時期に戻る。我々や先生、先輩がどのような稽古、どのような事をやっていたかを思い出しながら書いてみる。
まず、気を表に出して稽古をした先生がおられたことである。亡くなられてしまったが、当時は、毎週火曜日の午後の稽古で教えて下さっていた藤平光一先生である。後に、気の研究会をつくり教えておられたように、気を重視して合気道の技を教えておられた。折れない手をつくるためには、気を通せばいいとか、気が通っていれば、親指と人差し指でつくった円が多少の力では壊れないとか、気を大事にし、気を中心にした稽古だった。
藤平先生の身体は柔軟であるが強靱であり、地に吸い付くような重みと安定性があった。これも気によるものだったのだろう。

稽古が終わった後など、先輩とよく話をした。気の話もした。ある時、気でやれば、包み紙で割りばしが切れると云う。まさかと思っていると、ある日、その先輩がやっている小さな中華料理店に連れていてくれ、そして店の割りばしをそのつつみ紙で切ってみせてくれた。割りばしの両端を突き出した人差し指に載せ、それを先輩が割りばしを包んだ紙で切ったのである。確かに切れた。二、三度やっても切れたので、紙で気が切れる事は確認できた。そして自分でも試してみると、何度かやる内に切る事ができたのである。
先輩が云うように、気で切ればいいということだったわけだが、当時は、まだよく分かっていなかった。

また、先輩の話から、木刀で紙の輪っかで吊り下げた青竹を切ることができるというのである。その先輩も切った事があるという。青竹を紙の輪っかで吊り下げ、その状態の青竹を木刀で二つに切り離すのである。普通なら木刀が当たった瞬間に紙の輪っかが切れてしまうはずである。もし、紙の輪っかが切れずに青竹が切れたら腕力と違う力が働いたことになる。これを気というのだろうと思った。
この先輩は前出しの藤平光一先生のお宅に伺った際に体験したという。自分の目で確かめていないので半信半疑であった。
しかし、その後に解ったのだが、青竹を木刀で切っていたのは藤平先生たちだけではなく、他の先生や先輩もやっておられたのである。多田宏先生をはじめ、合気道の内弟子や古参の稽古人達である。そこは中村天風先生の天風会である。当時は話だけだったが、後に、多田先生から先生のご著書『合気道に活きる』(日本武道館)を頂き、その中にその青竹切りの写真が掲載されており、それが本当であったことを確認することになった。

木刀を打ち下ろしておられるのが多田宏先生。先生の右側に立っているのが中村天風先生
また、もう一つ、気が分かってくる話を見つけたので書く。これで大先生の気の自覚、気の悟りがどこから来たのかが分かったと思う。多少、長い文章になるが略さずに書く。
「次に各地を巡回中、ある一地方に行った時のことである。漁師町であった。そこに素人相撲で腰のネバリ強い、二十七、八貫、五尺八、九寸はあったと思うが、この男ににわかに勝負をいどまれた。失敗はしないが、手こずった。裸の全身にヌルヌルに汗をかいて容易に掴めない。とにかくするうちに相手も疲れていたのであろうが、手がふれたら指一本で押える事が出来た。この時、ウナギ掴み、すなわち気でもって相手を抑える、すなわち位づけの妙法を覚ったのである。こうして合気の真の鍛錬法が出来てきたのである。」(合気神髄P.163-164)
この文章には大事な教えが幾つかある。一つは、腕力よりも気の方が強い。気が出ていれば指一本でも抑えつける事ができる。言い換えれば、腕力でやれば指一本では抑える事は出来ないということである。二つ目は、気を出すのはウナギ掴みの要領であるということである。打ってくる手を制したり、掴んでくる手を掴ませたり、技を掛けたり抑えるのは、このウナギ掴みの要領から気を出し、気をつかうということだろう。三つ目は、大先生は、ウナギ掴み、すなわち気でもって相手を抑えることが出来たわけであるが、ここで初めて気でやればいいということに気づかれたということである。恐らく大先生はそれ以前に気を出し、気をつかわれていたはずだが、ここで初めて意識されたわけである。我々稽古人も恐らく気を出したり、つかっているはずなので、どこかでそれに気づくことが大事であるということになる。

以上、これらの事で気が大分わかってきたようである。後は、技に取り入れて、技を練り気を練っていけばいいと考える。