【第788回】 気を感じ、気を出す体のために

気が少し分かってくると、これまで既に、気がつかない内に気を出そう、気を使おうとしていた事に気がつく。魄力を使わずに体や力をどのようにつかえばいいのかを試行錯誤していた際に、これではないか、あれではないかとやっている内に、気を出し、気をつかっていたのである。その典型的な例は、以前にも取り上げた二教裏である。肉体的、物質的な魄の力よりも、呼吸による魄の力でない力の方が強力あることが分かっていた。
しかし、気力だけでは相手を制したり、倒すことは不可能である。やはり、肉体の力が絶対に必要である。つまり、魄力でも気力でも体や手・腕の働きは必要なわけである。ということは、腕力と気力に於いて、体や手・腕のつかい方、働き方に違があるという事になるはずである。まず、その違いを考える事にする。
腕力の場合、手・腕の指関節、手首、肘、肩がしっかりくっつきあい、一本の棒のように動くから、その力を受けたものは、手・腕や肉体の肉体的、物質的な力を感じることになる。
一方、気力の場合は、手・腕の指関節、手首、肘、肩、それに胸鎖関節のカスが取れ、各々分離する。分離したままでは力が出ないので、その各々の部位をつなげなければならない事になるが、それを繋げるのが気であると感得する。

気を感じ、気を出すためには、体のカスを取らなければならない事になる。手・腕の場合は、指関節、手首、肘、肩、胸鎖関節のカスである。
本来、合気道の技(形)稽古の一つの目的は、体の部位のカス取りであるから、相対稽古を繰り返すことによってカスが取れるわけだが、実際にはなかなか取り除くことは難しいものである。それ故、カスを取り除く運動を自主的(つまり、稽古時間以外でということ)にやればいい。
そのやり方を有川定輝先生は教えておられた。当時はその稽古の意味が分からなかったが、今になると、その教えの素晴らしさが分かる。
有川先生の突きの強烈さは誰でも知っている。先生は偶にその突きを示して下さっていた。誰もが、あの突きを受けたら終わりだと思ったはずである。
また、あの強烈な突きはどうして生まれるのかとの興味も持っていた。しかし、先生は空手を修業しておられたので、突きもあのように強烈になったのだろうと、これまで思っていたのである。
しかし、有川先生は、体の部位の関節のカスを取らなければならないと、暗に教えておられたのである。一つは、両手を横に拡げ、手首、肘、肩、胸鎖関節の各関節を独立して、先生の言葉では“バラバラ事件”にならないように、ぐるぐる回す運動である。二つ目は、手・腕を上げ、正面打ち、横面打ち(左右)、突きとつかう運動である。米の字の運動で、この運動を手首、肘、肩を支点にやるのである。
先生は、これらの運動によって体のカスが取れ、気が出るようになり、そうすればあのような強烈な突きもできるようになるから頑張れという教えだったと思う。

このような教えがわかってきたのも、若干ではあるが、気というものが分かってきたからだと思う。それまで解らなかった先生の教えとか、以前に気づかずにやっていた技づかいや体づかいでも、気を感じ、気を出し、気をつかおうとしていた事がわかるようになったのである。
例えば、気を感じ、気を出す稽古は、基本の稽古にあったということである。大事な事は基本の稽古にあるということである。具体的に例を挙げれば、技の最後の押えで、一番分けり易いのは、一教腕押えと坐技呼吸法押えである。この押えをしっかりやれば、気を感じ、気を出すことが出来ると思う。この押えを、初心者は体重を載せたり、腕力での肉体的、物質的な力でやるのが多いが、ちょっと力を入れると跳ね飛ばされてしまう。気の力で抑えなければならないのである。この気の力を感じ、出し、つかえるようになれば、大先生が言われているように、指一本で押えるのも容易に出来るようになるものである。
この気で技と体をつかっていけば、気がもう少し分かることになるだろうと考えている。