【第718回】 技はつくるものではなく生まれるもの
前にも書いたように、次の次元の稽古をしなければならない。これまでと同じ魄の稽古だけを続けていれば何も変わらず終わってしまうはずである。真の合気道の魂を学びに入るためには、これまでの魄の稽古と異質な稽古をしなければならないと考える。そのためのお手本を示してくれる方々は、最早居られないから己で見つけていくほかない。これまでの先入観を捨てて、全く新しい、これまでと異質な方法で上達していかなければならないはずである。
そう考えていると、「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」という柳 宗理(やなぎ そうり)の一節が目に留まった。
柳 宗理(1915年6月29日 - 2011年12月25日)は、20世紀に活動した日本のインダストリアルデザイナー。戦後日本のインダストリアルデザインの確立と発展における最大の功労者と言われる。実父は民芸運動の指導者で思想家の柳宗悦。
彼は、「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない。
デザインは意識活動である。しかし、自然に逆らった意識活動は醜くなる。
なるたけ自然の摂理に従うという意識である。この意識はデザインする行為の中で、究極のところ無意識となる。この無意識に到達したところより美が始まる。」と主張しているのである。
この「「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」の理合いはデザインの世界だけでなく、あらゆる分野に適合すると思う。勿論、合気道でも適合するし、合気道の技づかいはそうあるべきはずである。
合気道開祖植芝大先生は、
- 「技はそのひびきの中に生まれるのです。」
- 「技は動作の上に気を練り気によって生まれる。」
- 「阿吽の呼吸の気の禊によって生じた武の兆し(注:技と考える)は、世の泥沼から蓮の浄い花咲く不思議なる巡り合わせのように、不思議なる魂の花が開き、各自の使命の実を結ばせ、心で身を自由自在に結ぶ。」
- 「魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である、その比礼振りは融通無碍で固定したものではない。」
等、技はつくるものではなく、生まれるものであるといわれているのである。
土台づくりの魄の稽古の期間は、合気道の基本の形(一教、四方投げ等)を指導者の形に近づけようと、こうだろうああだろうと、意識的に頭と体でつくりあげようとしていたはずである。完成した技に少しでも近づけと、頭で考え、体を駆使するする。これが技をつくるということだろうと思う。
これに対して技を生み出すとは、頭で考えなくとも、また体に指示しなくとも、技が自然と無意識で生まれることであると考える。勿論、技を生み出すためには、土台づくりの段階で体を陰陽十字につかうこと、イクムスビの息づかいなどの宇宙の理を身につけていなければならないだろう。
それを基に、阿吽の呼吸で体が無意識で動けば、それが自然と技となるわけである。
技をつくる稽古段階では、意識的に相手を制し、導くことが目的となるので、そのために技をつくることになり、自然に逆らうことにもなり、時として争いにもなるわけである。
この技を生み出す稽古段階では、阿吽の呼吸で天と地を結び、相手とも結び一体化すると、息で体が無意識で陰陽十字に自ずから働き、結果的に相手を自由自在にすることができるといことである。
無意識で技が生まれてくるような合気道にならなければならない。
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