【第707回】 魄と気と魂

合気道を修業するに当たって、まずは目に見える形を覚えることから始める。合気道の基本の形を覚えながら、体を鍛え、力をつけていくのである。これが魄の稽古である。
この魄の稽古も非常に大事であることは言うまでもない。何故ならば、次の魂の稽古に繋がっていくので、力を十分につけていなかったり、体がしっかりしていなければ次に進めないからである。
合気道には力が要らないなどという人がいるが、力は要るし、力はつけなければならない。確かに大先生は、我々が力んだ頑張り稽古をしているのを目にされると、道場にお入りになり、合気道は力は要らない、米糠三合を持つ力で十分だ等と言われていた。このようなことを鵜呑みにして合気道には力は要らないとなったのだろう。大先生は力んだ稽古をご覧になっても叱ることはなかったし、逆ににこにこされてそんなに力まなくてもいいと注意をされ、そして力まないが力強い技を示して下さった。
だが、大先生が、力を入れない、気を抜いた稽古を見つけられると烈火のごとく激怒された。力一杯相手を投げたり、受けを取るのは勿論の事、しっかり相手に掴ませ、また正面打ちや横面打ちでもしっかり打ち、受けなければならないのである。だから初めて1,2年間は、正面打ちで思い切り打たれたために、手の尺骨に痣ができたので、そこを打たれると飛び上がるほど痛かった。また、思い切り掴ませるので手首は太くなり、手首の毛も濃く、太くなっていった。

この二つの事から分かったことは、一つは力一杯稽古をして力をつけなければならないということ。二つ目はつかう力はその内の一部、理想としては米糠三合を持つ力である、つまり、力をつけるが、その力に頼るなということである。

これまでの力は魄の力である。合気道で錬磨する技をつかうに当たって、この魄の力をつかわないということになる。しかし、相手に技を掛けるに際してこの魄の力に代わるもの、しかもこの魄の力より強力なものが必要になるわけである。

合気道は魂の学びであるから、魂が魄に代わらなければならないことになるわけだが、魂(心、念、精神)で技を掛けようとしても、中々思うように上手くいかない。
そして最近分かった事は、魂の前に「気」に働いてもらわなければならないという事である。それが何故分かったかと言うと、一つは呼吸法の鍛練稽古で実感した事、二つ目は、大先生の次の教えに出会ったことである。
「技は動作の上に気に練り気によって生まれる。(中略)また魂をその中におこし、磨き妙なる技を出し・・・(武産合P104)」。

まず、呼吸法の鍛練稽古での、魄の力に代わる気の実感である。片手取り呼吸法でも坐技呼吸法でも気の力を実感できるが、そのための条件がある。それは魄の力でしっかりした土台を造らなければならないという事である。しっかりした体幹、折れ曲がらない手先・腕、そして阿吽の呼吸でやることである。
坐技呼吸法で具体的な技の説明をすると、①両手を腹と結び、息を吐きながら腹で手先を前に出して相手の手と結ぶ ②阿吽の阿で息を引きながら、相手の手が接している手首を支点として、手先を前に伸ばし、支点の上の腕と上腕を肩そして腰腹に伸ばし結び、③腰腹に結んだら、息は更に阿で引きながら、腰腹から出てくる「気」を手先に流すと手を動かさなくとも相手は浮き上がってくる。ここでこの「気」を四魂や三元や八力に練り、そしてその練った「気」をつかっていけばいい。
これまでは腰腹や手の、所謂、魄の力で相手を持ち上げていたわけだがが、この力はこの魄の力に代わる力であり、魄の力より強力であり、相手に不快感を与えない自然な愛の力と言えるだろう。

この坐技呼吸法での感覚は、先述の大先生の教え「技は動作の上に気に練り気によって生まれる。」と一致する。
魄の力に代わるモノは「気」ということになるわけである。
更に、魂に代わっていくわけだが、それは次回にすることにする。