【第260回】日月の呼吸と潮の干満の呼吸

技の練磨は通常、相対稽古で相手に技を掛けて稽古しているが、技は自分が思うようにうまく掛かるものではない。自分はうまく掛かっているので、問題がないと思うのは、問題に気がついていないだけと言えよう。

技を掛ければ、多かれ少なかれ、必ずといっていいほどぶつかるはずである。ぶつかるというのは、真の技ではないか、技が未熟であるか、未熟さをカバーするために力でやっていると言えるだろう。

技を掛けて相手にぶつかる原因として、二つあげられよう。一つは体であるが、自分の体や手足が相手にぶつかって、相手の動きを止めたり邪魔するのである。例えば、天地投げで向き合ったまま、技をかけようとしたり、押さえられている手を上げようとしたり、また四方投げで相手の脇を締めるように腕を遣うこと等である。

もう一つは、気持(霊)である。自分の気持を相手の気持にぶつけてしまうと、相手の防御本能を目覚めさせたり、反抗心を起こさせ、それによって技を止めてしまい、反されたりするのである。

ぶつからないようにするためには、身体の各部を十分に反していくことと、自分の気持を相手の気持にぶつからないようにすることである。気持がぶつからないためには、体と同じように、自分の気持と相手の気持を結んでしまわなければならない。入り身や転換では、まず相手と気持を結んでから、体と一緒に気持もしっかり入り身、転換をするとか、相手に持たせた手を相手が弾いて離れないように気持でくっつけたら、相手を感じながら、相手の気持を引き出し、制御するように遣う等である。

気持が相手にぶつからないようにするためのもうひとつの方法は、宇宙の法則に従った気持(霊)の遣い方をすることであろう。言うならば、宇宙の呼吸、自然の呼吸に合わせて、自分の気持(霊)を遣っていくということである。

宇宙の呼吸というのは、言霊(ことだま)であり、宇宙の響きという。呼吸も十字であるが、十字の縦の呼吸を、開祖は「日月の呼吸」、十字の横の呼吸を「潮の干満の呼吸」といわれているようである。また、開祖は「日月の呼吸」を「天の呼吸」、「潮の干満の呼吸」を「地の呼吸」ともいわれており、この天と地の呼吸を合わせて技を生み出す、といわれているのである。

合気道は、再三書いてきたように、十字道ともいわれるように十字が基本となっている。技は、この「日月の呼吸と潮の干満の呼吸」の十字の呼吸をつかってやるのである。宇宙の法則に則っているから、相手は違和感を持たないだろう。たとえ相手が意識で反抗しようとしたとしても、無意識がもっと強く働き、相手の体と気持(霊)が無意識のうちに自然と従ってしまうようになる。

「日月の呼吸」を遣うと、「天地投げ」で天へあがる自分と相手の手、「呼吸法」であがる手、「入り身投げ」での天側の手と体、「二教裏」で抑えている相手の手とこちらの肩や胸などが、相手の抵抗なく、しかも相手が自ら進んでやっているかのように、自然と上へあがるものである。

「日月の呼吸」を技で遣うために大事なことは、力(体)主体でやるのではなく、気持(霊)と呼吸(息遣い)主体でやることだ。力(体)主体でやれば、「日月の呼吸」は遣えないし、必ずぶつかることになるだろう。

この「日月の呼吸」で上がったものを技とするには、今度は縦から横の「潮の干満の呼吸」を遣わなければならない。こちらと相手の間(ま)は、潮の干満のように密になったり疎になったりするが、相手はくっついてしまい、こちらの体の一部と化したようになる。こうなると相手は反抗する気持も無くなるようで、気持よさようについてくるだけである。あとは、地へと縦に落とせば、技となるだろう。

人の体はけっこう重いものであり、手で上げようとしたり動かそうとしても、容易にはできないものであるから、体だけに技を掛けても、相手はうまく動いてくれないはずである。やはり、もう一つの霊(気持)に働きかけなければならないことになる。

極端な例であるが、死体は想像以上に重いし動かしにくいが、生きている人は死体に比べると軽いし動かしやすい。生きている人は一人でも運べるが、お棺は一人では担げない。
かつて開祖は手に木刀を持たれて、「この木刀の方がお前たち(前に控えていた内弟子)より重い」と時々いわれていたものだが、当時はみんなチンプンカンプンであった。しかし、この霊を考えれば分かるような気がする。おそらく木刀には人のような霊(気持)はないだろうから、死体と同じような意味で重いし、霊的に動かしにくいということではないだろうか。

技は体にかけていくだけでなく、日月の呼吸と潮の干満の呼吸に合わせ、相手の霊(気持)にもかけるようにしていかなければならないだろう。