【第245回】 合気道と絶対

学生でヒマだった時期に、「絶対とはなにか」ということを考えていた。なぜなら、もし絶対というものがあれば、その絶対に照らし合わせれば、すべての物事のよし悪し、善悪が容易に判断できることになるので、自分の悩みも世の中の問題も簡単に解決することになると思ったからだ。

よく友人たちと人生についてとか、芸術など議論をして、自分の考えこそ絶対正しいと思うのだが、相手もそう思って主張してくるので、いつも議論は堂々巡りであった。そういう時に、なにか判断基準があればいいのにと思った。

芸術作品の評価でも、裁判での判決でも、人間や物事の評価でも、そういうものがあればもっと容易に、そして正確に判断出来るのではないかと思ったりした。しかし結局、「絶対」を見つけることはできなかったわけだが、今もしつこく絶対探しを続けている。

西洋や諸外国では、「神」こそ絶対であるという。だから物事はこの絶対の神に照らし合わせて判断されることになる。キリスト教、イスラム教、ヒンズー教などの神を絶対としている国では、巨大な教会があるし、生活も神中心で動くことになる。

しかし、日本の場合は、神様も絶対の神様はおられず、八百万の神がおられるだけで、判断を仰ぐ神様は人によって、また場合によって変わってしまうという、絶対不在の国といえるようだ。

合気道では「絶対」ということは言われないようだが、あるといってもいいだろう。もしそういう芯がなければ、これだけ多くのひとが一つの方向に向かって稽古を続けることはできないはずであるから、なにか「絶対」なるものがあるはずである。

合気道で「絶対」があるとしたら、それは合気道だけに通用するものだけでなく、一般的な科学的な説明もつくだろうし、西洋の「神」という「絶対」と比較しても遜色ないものでなくてはならないはずである。

なによりも、合気道での「絶対」は、それが理解出来ないと合気道の理解も精進も難しいということになるはずだ。従って、それは最も川上にある「絶対」でなければならないだろう。

私は、開祖がよく言われていた「一元の元」こそが合気道の絶対といえるのではないかと考えている。「一元の元」とは、宇宙にまだ何もないところに忽然と現れたといわれるポチである。人類は宇宙のことをまだまだほとんどわかっていないが、何もないところから何かが出現して、生長し、ビッグバンで星が誕生し、地球ができ、生物が生まれ、人類が誕生し、そして今の自分に至っているわけで、この世に存在するすべてのものはこのポチに繋がっているわけである。これは科学的にも解明されている。

開祖は、この一元の元を大神様といわれ、この神様を西洋では「神」(ゴット)と名付けていると、次のように言われている。「この神のみ働きを御名として、大国常立命、天之御中主之神、阿弥陀仏、ゴット、大極、天帝とか名をつけている」。一元の元は大神であり、西洋の「絶対」である神ということになる。

キリスト教では、宇宙ができる最初に「はじめに言葉ありき」と、音が宇宙のはじめであるというが、開祖も、「一元のスは生長してウ声と充たし、ウ声は遂にみたまを両分して物のもとと、霊のもとが生まれた。これが科学のはじまりなのです。」と、スという声から宇宙が創造されたといわれているのである。

一元の元、大神が合気道での「絶対」とすれば、合気道はこの「絶対」に照らし合わせて修行していかなければならないだろう。つまり、修行する合気道はこの一元の元の大神様と繋がっていなければならないし、その道を外れてはいけないことになる。

また、世界のすべての人は一元の下に繋がっている兄弟ということになるわけだから、稽古はもちろんのこと、道場外でも喧嘩や争いをなくし、少しでも和合するように導かなくてはならないということだろう。 「合気道は世界を和合させ、人類を一元の下に一家たらしめる道である。」と開祖は言われている。

一元の元とは真理である。真理を神ということが出来るだろう。神は絶対とすれば、一元の元の大神様も「絶対」ということになる。これを信じて修行を続けるのが、今のところ最良の修行の道であろう。