【第165回】 道は自分で切り開く

合気道は技を通じて、合気の道を進み、真理を追究するものである。はじめは技の形を覚え、形の稽古を通して体をつくらなければならないが、これは習うことができるので、先生の教えに従って稽古すればよい。

形を覚え、合気の体ができたら、技の稽古に入ることになる。しかし、合気道の技は摩訶不思議なもので、そう簡単には身につかないし、完成しない。というより、決して完成することはない。ただ完成に向かって一歩でも近づくべく稽古をするしかないという、「悲劇」であり、ロマンである。よほど最新の注意を払って稽古をしていかないと、技は覚えられないし、上達はないのである。

技が出来るためには、技が遣えるための土台になる動きが出来なければならないが、それを業ということにする。この業は他の武道や芸道にも共通する動きであり体の遣い方をするものと言えよう。

この業の稽古になるのが、合気道では呼吸法という稽古法である。技ではないが非常に大事な稽古である。この呼吸法が出来なければ、技もそれ相応にしか出来ないといわれている。特に、諸手取りと坐技呼吸法は大事であろう。開祖の居られた頃の稽古では、どの師範も必ずこの両呼吸法をやられていたと記憶する。

この呼吸法もそうであるが、基本技も表面的な形は教えることや習うことができても、奥に潜む奥儀や秘儀は自分で探し出すほかはない。開祖が居られたときでも、開祖は細かく教えて下さることはなかったので、開祖の動きを見て、その中から秘儀を見つけなければならなかったものだ。

ましてや開祖が亡くなられて、高弟もだんだん少なくなってくるようでは、教えてもらうことも、秘儀を盗むことも出来なくなってくるから、ますます自分で何とかする他になくなってくる。

先代の吉祥丸道主は「すべての道はあるところまで先達に導かれますが、それから後は自分が開いてゆくものなのです。」(「合気道技法」)と言われている。道を自分が開くには、もちろん道場での相手がいる相対稽古は大事である。少しでも技が上達すべく、意識を集中し、心身を最大限遣った稽古をしなければならない。また、常に問題意識を持ち、その解決法を考えながら稽古をしていかなければならない。

しかしながら、道場の相対稽古だけでは、前進を阻む大きな問題や次から次へと湧いてくる問題の解決は出来ないだろうし、技に潜む秘儀の発見も難しいので、どうしても自主稽古が必要になる。稽古時間の後の自主稽古や、道場の外での自主稽古である。吉祥丸道主は「すべてを教えることは難しいので、後は自主稽古で研鑽しなければならない。」と言われていた。

最後は誰でも、道は自分で切り開いていかなければならないようである。

参考文献  「合気道技法」植芝吉祥丸