【第929回】 霊と魂と三元と身体の関係の一考

今年の最大の目標は「魂」である。昨年は少し分かりかけて来たようなので、その線で探究していくつもりである。大先生の教えを基に、魂とは此れではないか等と予想し、技で試し、身体の判断や忠告・助言で会得していこうということである。故に、これからの論文は私個人の考え、つまり大先生が教えておられない事も書く事になると思う。誤りもあるだろう。しかし「魂」のようなよく分からない事をわかるためには間違いを恐れずに挑戦していくしかないと考えるので、誤りを恐れてなどいられない。そして最後には正解を見つけるはずだし、そこで誤りだったと反省すればいいだろう。そうしなければ先に進めないからである。

“魂”を知り、身につけるためには“霊”を知らなければならないと思うようになった。霊を知れば魂と云うモノが分かるのではないかと思ったのである。
そう思ったのは一霊四魂三元八力の霊と魂との関係である。大先生は一霊四魂三元八力を、「一元の現れであるこの世界は、やはり霊と体、つまり表があって裏があると同じように、物の根源と霊の根源で営まれている。つまり造化の三神のように、水と火の息の交流によってこの世は営まれている。
その働きは分派して、一霊四魂という働きを授けている。体については三元八力という働きがあり、これらのご活動によってこの世は出来上がっている。即ち一霊四魂三元八力のご活動によってこの世は出来上がっているのである。(武産合気 P.80)」と教えておられる。
ここから気づいたことは、一霊四魂の霊と魂は密接な関係があるというより一体であるということである。上記の裏と表の関係であり、物の根源と霊の根源で営まれる関係であるということである。

次に霊と魂の関係と云うと、霊は体であり、魂は用であるということである。これは大先生は云われていないが、これまでの技づかいから分かった事である。技をつかう際、身体は体と用につかわなければならないし、身体の各部位には体と用があるからである。例えば、手をつかう際、親指・母指球は体であり、手刀(小指と掌底の間)は用となる。体は支点で用はこの支点に基いて動く。故に、支点の体を無暗に動かすといい技にならないわけである。
霊はあちこちふらつかないで体の中心にどっしり収まり、魂に働いてもらうのである。四魂である。奇魂、荒魂、和魂、幸魂に働いてもらうのである。
また、大先生は「一霊の中心に対して霊魂を作り、その霊に又四つの働きをもたらしている。各々四つはまた四つの働きをもっている。それを一霊四魂といっている。」(武産P.110)」つまり、例えば、荒魂にも荒魂の荒魂、荒魂の奇魂、荒魂の和魂、荒魂の幸魂である。これは複雑になるのでここでは無視することにする。もの事を解明するには単純化が必要だと思うからである。

一霊四魂の一霊は一元の神であり、ス声の言霊である。「ス」は元の大元霊で、すなわち大神さまの御心であると大先生は云われている。
ス声から自然とウ声が発する。ウ声は「み魂を両分して、一つは霊の根源を生み、一つは物質の根源を生んでいる。」から、ウの言霊で霊の根源の四魂と物質の根源の三元を両分し、更に四魂の内のどの魂にするのか、三元のどれにするのかを分けるということであろう。

四魂も三元も頭では何となくわかるがよく分からない。その理由は身体が分からないと分かったと実感できないからだと考える。
そこで霊と魂と三元と身体の関係を考えてみることにする。大先生の教えにはないようなので一考とする。


四魂 荒魂 和魂 希魂
三元
身体
剛の技をつかう場合は荒魂の気持ちで、足の力で掛け、柔の技は和魂の気持ちで腹で掛け、流の技は希魂の気持ちで胸で掛けるということである。
また、剣や杖もこれで振ればこれらの関係が分かりやすいし、四股踏みでも活用できるし、開脚運動などの準備運動でも活用できるようだ。
尚、四魂の幸魂についてはよく分からず、研究中である。

魂については更なる探究が必要である。